第二編 歴史
第二章 中世
第三節 室町・戦国時代
 二  戦国時代の郷土
(二) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

長和田・長瀬川の戦い
 天正8年8月、元春は本陣を茶臼山(北条町)に進めた。戦いは同月12日から13日にかけて行われ、吉川軍の先陣杉原勢と南条九郎左衛門元秋(元続の弟)が長瀬川(旧天神川、田後、長瀬を経て橋津川に合流した)を挾んで対陣した。杉原勢は川を渡り南条勢に猛襲を加えたので、南条勢はこれに抗しきれず、羽衣石城下まで退いた。杉原勢はこれを追撃したが死傷者も多く、民家に放火するなどして引き揚げた。南条軍の敗戦に終わったが、落城には至らなかった。
 元春が8月15日付けで家臣湯原春綱にあてた書状に、「去る十三日羽衣石岸際まで相動き、宗徒〈むねと〉の者(主だった者)数百人討ち取り候、勝利此の事に候、左候間、残る所なく放火せしめ、稲薙〈いななぎ〉(田の稲をなぎ払うこと)等日々申付候(後略)」(「湯原文書」『萩藩閥閲録』所収)とあり、この戦いに勝利を収めたことを報じている。
 また、南条方においても家臣をほう賞している。元続が山田畔助にあてた感状に、「去る八月十三日、芸州衆此の表に相動き、長和田口に於いて防戦に覃〈およ〉ぶの刻、敵勝に乗じ此方へ慕い送り候処に、其に魁〈さきがけ〉となり追帰し、敵討ち捕り高名比類なく候(後略)」(資料編8号)と戦功を賞している。
 岩国徴古館所蔵「山田氏覚書」(『新修鳥取市史』第三巻所収)によれば、「八月十三日ニ大合戦有之、其日之大将ニ南条九郎左衛門・広瀬若狭守罷出討死仕候。其外数多被討申候。是を長和田之十三日崩と世間に申候」と記している。
 さらに、同覚書は次のように述べている。
一右長和田八月十三日合戦已〈い〉後(中略)羽衣石付城を被仰付、高野宮城ニは山田出雲守直重、城山之城ニハ岡本大蔵、松ケ崎之城ニは小森いつミ守、右三城とも羽衣石御手当也(後略)
 8月13日の合戦に勝利を収めた吉川元春は、高野宮城に山田出雲守直重、城山の城に岡本大蔵、松崎城に小森和泉守を配置して羽衣石城に対抗させたのである。本来、羽衣石城を守るためにあったこれらの出城も、いったん敵方に占拠されると、逆に羽衣石城に対する格好の付城〈つけじろ〉(敵城を攻めるための城)となったのであろう。
 「城山之城」は、これが初見であり、その位置を確定することは難しい。しかし、羽衣石城の大手である長和田に通ずる口は三方だけである。そのうち、西郷方面に高野宮城、東郷には松崎城があるから、残る「城山之城」は羽合郷方面の口に求めるのが順当であろう。このように考えると、長江にある字「城山」の地名が浮かぶ。「城山之城」は長江に比定するのが適当ではなかろうか。城将「岡本」の姓も長江・門田との関連をにおわせる(後述する「戦乱の終結」の項を参照)。

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