第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

天正7年南条氏の毛利離反
 その後も引き続き山田重直は南条氏の重臣の地位にあった。天正7年5月、中津・小鹿(共に三朝町)の山堺争論について、南条元続が下した裁許状の副〈そえ〉状(資料編65号)に、南条の重臣の1人として重直の署名があることによっても確かめられる。
 元続が毛利氏離反に踏み切った時期は、前述の上月城攻防戦の陣中とする説もあるが、その去就が鮮明になったのは、天正7年の後半とみるのが妥当であろう。この結果、東伯耆で南条氏に統率されていた国人衆は、織田・毛利の2大勢力に挾まれて分裂し、互いに争乱を繰り返すことになる。同年9月、元続が堤城の重直を攻撃したのがその手はじめであろう。城は落ちたが、重直父子はかろうじて鹿野城に逃れた。
 なお、『伯耆民談記』などには、この年7月、吉川元春が羽衣石城を攻撃し、落城させた説話を載せる。しかし、この時点では南条の毛利離反は表立っておらず、吉川氏の来攻があったとは考え難い。

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