第2編 歴史 第2章 中世 第3節 室町・戦国時代 2 戦国時代の郷土 (2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏 福山氏の事件 経歴は不明であるが、尼子の遺臣で福山次郎左衛門茲〈これ〉正という者がいた。かつては八橋城主をつとめたこともある武将で、元続と親しく当時羽衣石に居住していた。この者が上方(織田氏)によしみを通じており、元続に毛利離反を勧めた。元続も心中その意思があり、既に上方と密約があったともいわれる。織田方の中国方面進攻の責任者は智謀に優れた羽柴筑前守秀吉であったから、おそらく中小領主を味方に引き入れるための工作が盛んに行われていたと察せられる。 北条堤城主山田出雲守重直はかねてから吉川元春の信任が厚かった。『陰徳太平記』は、芸州で元春の意を受けた重直は、南条氏を毛利方に引き留める必要から、天正7年(1579)4月、伯耆に帰り福山次郎左衛門を自邸に招き、打ち果たしたとしている。しかし、岩国市徴古館所蔵「山田家文書」中の山田重直にあてた天正4年11月25日付けの吉川元春起請文写、(資料編44号)に、「福山次郎左衛門尉共事、内々逆心も風聞候、殊に去年の儀証拠歴然の儀候条、(中略)上着翌日則時に打ち果され候事余儀なく候、我等に於ても本望この事に候、(下略)」とあり、この事件を天正4年の文書で述べている。写しではあるが、本稿では「山田家文書」に従って、天正四年の事件と解する。 この件について、重直は元続に対し事後に報告しただけであった。同じく岩国市徴古館所蔵の「山田氏覚書」には、「右の趣(福山氏を討ち取ったこと)元続へ使者を以って申達候へば、我等に少しも聞かさず、さてさて曲なき仕様かなと、(元続は)殊の外立腹」したが、福山を則時討つよう元春の厳命があった経過を述べて、元続の不審を解いたと述べている。 この事件に関連して、元続は毛利氏に二心のないことを元春に弁明するため、鳥羽久友・山田重直らの重臣五名を芸州に派遣している(資料編18号参照)。しかし、こうした元続の行動もひっきょう時間かせぎであったとみられる。既に上方に傾いていた元続の意思に変わりはなかったであろう。したがって、元続と、毛利氏に忠誠を誓っていた重直とは、以後互いに疑心を持ち合う関係にあったとみられる。 |
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