第2編 歴史 第2章 中世 第3節 室町・戦国時代 2 戦国時代の郷土 (2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏 南条氏の動揺 前述のとおり、宗勝が「毛利家に対し、等閑の所存ゆめゆめあるべからず、当家を再び引き興したること皆毛利家の恩誼なれば……」と遺言し、元続自身も吉川氏に起請文を提出しているにもかかわらず、織田氏の中国進出により早くも動揺が始まるのである。織田・毛利両氏の対立のはざまにあった中小領主共通の悩みであったと思われる。南条氏にとっても、一家存亡にかかわる重大事であった。 『伯耆民談記』は、次のように述べている。 (前略)其上杉原は毛利家無二の家柄(注)故浸潤〈しんじゅん〉の讃〈そしり〉何時かは彼れの乗ずる所となりて、我家滅亡のもと(基)ひなるべしと、勘兵衛も自然毛利家に対し隔心に成りたり、其頃上方〈かみがた〉には織田信長公弓箭〈きゅうせん〉の名聞当時に盛にして、天下の武将と仰がれ給ひ、西国表の先鋒羽柴筑前守秀吉、播州姫路の城に在って近国を切り随〈したが〉へ、毛利家と合戦最中なり、信長公破竹の勢を以て四方を討伐し誠に天の時を得給ひ、秀吉の智謀絶倫なれば、遂には毛利敗軍となるべしと、世間の取沙汰専らなり、勘兵衛も熟々〈つらつら〉思ふ様近年秀吉因州表へ手遣ひし大半切従へたるよしなれば一国平均の後はやがて当国へ打向ふべしその時、先手なれば一番に此城に攻懸らんこと必定〈ひつじょう〉なり、毛利家の弓矢も漸く末になり、手をひろげたる様子なる間、中々急に後詰〈ごづめ〉(救援)あるまじ、然らば当家の滅亡は疑ひなけん、所詮〈しょせん〉事急迫に及ばぬ先、上方へ一味し、秀吉入国の時を以て己れ其の先鋒となって西伯耆に攻入り、杉原を討果して亡父の為めに宿怨〈しゅくえん〉をも報いんものとて(後略) (注)水が物に次第にしみ入るように、漸次人を讒〈ざん〉すること。 杉原氏に対する恨みを晴らす気持ちも、もちろんあったであろうが、最大の理由は将来の見通しによったものと思われる。すなわち、織田信長は天正元年(1573)には京都から将軍義昭を追放し(足利幕府の滅亡)、さらに朝倉義景・浅井長政を滅ぼした。同2年には長島一揆〈いっき〉を平定、3年には三河長篠において徳川家康と連合して武田勝頼を破り、4年には安土城に入った。ついで中国方面に進出を目指す破竹の勢いであった。このような織田氏と中国地方の覇者毛利氏のいずれに従うか、武将たちにとっては重大な岐路であった。 |
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