第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

宗勝から元続へ
 『伯耆民談記』によれば、永禄年間の中ごろ、羽衣石に帰城し東伯耆を領した宗勝は、元亀元年(1570)家督を嫡子勘兵衛元続に譲って隠居した。その5年後、天正3年(1575)宗勝は不慮の死を遂げた。同書はそのいきさつを次のように述べている。
天正三年春の頃、宗勝出雲の富田城に到り吉川元春に謁し夫〈それ〉より杵築〈きづき〉大社へ参詣して帰途に大山へ登山し、諸々順礼して尾高の城へも立寄りける、(民諺記に八橋の城とあり)城主杉原播磨守殊に饗応〈きょうおう〉して酒宴に及び立別れしが、途中より発病し羽衣石に帰城の後頻〈しき〉りに五体悩乱し、種々治療を施すと雖も更に其験〈しるし〉なく、危篤に及びけり、宗勝は苦難を忍びで、嫡子勘兵衛元続を始め次男小鴨左衛門尉元清三男九郎左衛門元秋等の一族を近づけ云ひける様、命は天にありと雖も吾今度の病全く杉原が毒害と覚えたり、日頃彼と殊なる意(遺)恨もなけれども、彼れ吾を害し其後汝等若輩〈じゃくはい〉なるに乗じ、巧に毛利家へ讃〈ざんげん〉言し、当家を滅ぼし、伯州一円兼領すべきの隠謀と覚えたり、汝等相構へて心を彼れに許すことなかれ、又毛利家に対し等閑の所存ゆめゆめあるべからず、当家を再び引き興したること皆毛利家の恩誼〈ぎ〉なれば、たとへ杉原如何程に言ひ妨ぐるとも誠忠を尽して防ぎ弁ぜば、元春は心賢〈さか〉しき名将故当家を信頼別義あるべからずと懇に遺言して、齢〈よわい〉七十余にて歿しける、(後略)
 『南条民談集』(神波勝衛校注)によれば、杉原播磨守は、毛利氏の部将吉川元春に対面して、「南条入道、老体に似合ざる大酒を好み、酒毒に当てられ相果てたり」と語ったという。南条側では杉原氏を不倶戴天〈ふぐたいてん〉の敵と憎み、南条・杉原両氏は厳しく対立した。
 宗勝は景宗寺に葬られ、法名を決〈けっそう〉宗勝大禅定門という。嫡子元続は通称又四郎、南条系図ては勘兵衛尉元続と記している。また、光源院文書によれは、直秀と名乗った時期もあり(資料編31号)、萩藩閥閲録所収文書には、南条包兵衛元続とも記している。
 吉川元春はかねてから元続の忠誠を喜び、特に吉川経久の娘を自分の養女として元続に嫁かせたといわれる。



南条元続の花押
(三朝町中津区有文書から)

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