第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

尼子氏の余燼〈じん〉
 その後、永禄12年(1569)に至り、尼子の遺臣山中幸盛(鹿之助)らは、一族の尼子国久の孫にあたる孫四郎勝久を擁し、但馬から発して島根半島に上陸し、富田城奪回を目指した。
富田城は要害堅固で容易に落とすことはできなかったが、尼子氏に呼応して名地に浪人どもが動き出し、動乱が伯耆にまで波及した。当時、宗勝は毛利氏に従って北九州に渡海していたが、知らせにより急いで羽衣石に帰り城を防衛したが、小鴨の岩倉城は尼子勢の手に落ちた。和田の定光寺には、この年10月6日付けで勝久の安堵状が残されており、この一時期倉吉地方は再び尼子氏の制圧下にあったと思われる。
 尼子氏の一党は出雲・伯耆・因幡に大きな争乱を起こしたが、結局天正6年(1578)7月、播州上月城で滅亡する。これよりさき伯耆においては、既に元亀2年(1571)ごろ尼子残党は一掃され、毛利氏の支配が完成していたとみられる。


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