第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

宗勝らの転戦
 羽衣石城を回復した後も、南条氏は毛利氏の下知に従って、尼子氏を討つために西に東に転戦している。
 すなわち、宗勝らは永禄7年(1564)6月、毛利方から再び尼子方に変わった岩坪(会見町)の城主日野氏、江美城(江府町)主蜂塚氏を鎮圧した。また、同年7月、鹿野城によった尼子勢を攻略している(資料編42号、61号)。この時、勝部郷(青谷町)の神崎大明神に神田を寄進した文書がある。
 写しではあるが、次の史料を紹介する。
 鳴滝村
正一位神崎大朋神 杜領
一永禄年中伯州羽衣石之城主南条家御証文写
奉寄進因州気多郡勝部郷神崎大明神田地之事
一壱町 東分 一参段(反) 西分 一弐段 寺分 一弐段 綱嶋分
 一壱段大(注) 公文分
 合壱町捌〈はち〉段大
右、意趣者武運長久如意安全、子孫繁栄、奉祈加護者也、仍寄進状如件、
于時永禄七甲子年七月十三日
 小森木工允
  源久綱
   (『青谷町誌』所収)
 (注) 中世では1反(360歩)未満を、大(240歩)・半(180歩)・小(120歩)などと呼んだ。
 この寄進状を『青谷町誌』は小森久綱寄進状として採録している。寄進状の文面(「奉寄進………」以下)からすれば、小森氏個人の寄進ともみられるが、前書きには「羽衣石之城主南条家御証文」とあり、矛盾する。神社の伝承と思われる前書きを重視すれば、寄進者は南条氏であり、小森氏はその意を受けた執行者であったことも考えられる。
小森氏は東伯耆の国人で、当時は南条氏の傘下にあった。
 尼子義久の伯耆における最後の拠点であった八橋大江城も、翌8年9月開城した。毛利元就の命を受けた宗勝は、その跡に部将山田越中・一条市助・南条備前守・正受院利庵以下を入城させ、守備を固めた。
 毛利氏による尼子の本拠富田城の総攻撃には、宗勝は小早川軍に属して戦闘に参加している。こうして同9年(1566)、義久・倫久・秀久の尼子3兄弟は毛利の軍門に下り、尼子氏の宗家は富田城を去った。


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