第2編 歴史 第2章 中世 第3節 室町・戦国時代 2 戦国時代の郷土 (2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏 但馬・伯誉間の航路 前掲の「大智院宗派之口面書」でもう1つ注目すべきことは、花庵和尚の旅行が海路を利用している点である。但馬の津山(城崎町津居山)を朝の四ツ時(10時ごろ)に出発し、夜の四ツ時(10時ごろ)に泊村の要害下に着岸したとしている。この間約100キロメートルとみると時速8キロメートルとなり、徒歩によるよりも倍ぐらい速い。現在の泊村役場のある辺りの地名を字「要害」という。泊河口城のふもとであるから、文字どおり要害の地であったと思われる。とにかくこの時代に但馬の津居山と伯耆の泊を結ぶ航路が存在していたことが確認される。 また、帰路は大塚から乗船している。大塚は東伯町(現在は逢束)と倉吉市にあり、どちらも舟便の地であったらしいが、巌城からの距離からすれば倉吉市の大塚とするのが適当であろう。天神川を下り、橋津を経由して帰路についたと思われる。天神川の流路は「東郷荘下地中分絵図」の時代と変わりなかったと推定される。 |
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