第2編 歴史 第2章 中世 第3節 室町・戦国時代 2 戦国時代の郷土 (2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏 宗勝、父の法要を営む 永禄6年(1563)南条宗勝は父の法要を営んでいる。このことは兵庫県城崎郡竹野町須谷に所在する臨済宗の万年山円通寺所蔵の「大智院宗派之口面書」による。大智院は円通寺の塔頭〈たっちゅう〉(中心となる寺に附属する小さい寺)で、この記録は同院に住居した禅僧の筆になるものと考えられている。関係部分を抄録する。 一花庵和尚ハ入院天文十三甲辰季八月十三日六十歳也。十三年ヨリ十九年ニ至テ大徳寺ニ在寺也。円通寺時氏第六男也(注1)。知行ハ因州津ノ井郷二千貫文也。円通寺ハ前住ハ南禅寺ノ仙友和尚、後住ハ花庵和尚也。(中略)永六(永禄)癸亥季五月十六日棟豊(山名)第三年宗鏡寺ニ於テ(注2)拈香〈ねんこう〉、同廿三日ヨリ伯州下向也。津山ヨリ舟ニテ朝ノ四ツ時小船ヲ出シテ宵ノ四ツ時ニ伯州泊ノ要害下エ着岸也。其ヨリ光孝寺マデ三里也。光孝寺ノ正受院へ落着、南条豊後守ヲ宗勝ト号シ親父三十三年當日〈あたりび〉六月四日也(注3)。陞座〈しんぞ〉拈香共花庵候也。七月十七日ニ伯州大塚ヨリ津山ニ至リ着岸也。 (注1) 山名時義を指す。 (注2) 香をつまんで炉にたき、檀那等の繁栄を祈念し、祖師・本師の恩に報いる儀式。 (注3) 高座にのぼり説法すること。 (小坂博之「花庵行実録抄」『鳥収県博物館協会会報』13号所収) 花庵和尚は導師(法要を主宰する僧)として招かれたのである。わざわざ但馬から招いたのは、おそらく宗勝が浪人中但馬かあるいは京都において和尚に面識を得ていたためであろう。 光孝寺は倉吉市巌城〈いわき〉にあり、山名時氏の菩提を弔った臨済宗の名刹〈さつ〉である。中世では、江戸時代のような寺檀制度はみられなかった。したがって、南条氏は天台(十万寺)・曹洞(景宗寺、羽衣石字「景宗寺」にあったといわれる。 後述)・臨済(光孝寺)などの諸宗を外護〈げご〉したのであろう。 『羽衣石南条記』によれば、宗勝の父宗皓の没年を永正11年(1514)としている。これが正しいとすると、永禄6年の法要は33年忌ではなく50年忌に当たる。いずれにしても東伯耆の一中心地であった倉吉付近で盛大な法要を営んだのであろう。その時期は南条氏が家城・旧領を回復した直後であるから、おそらく南条勢力を誇示しようとする意図が加わったものと考えられる。 なお、「正受院」は山名時氏の子師義の法名である。「光孝寺ノ正受院」は師義の菩提寺として建立された塔頭で、光孝寺の寺域にあったと推定される。 |
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