第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(1) 尼子氏の進出と南条氏

南条氏らの回復戦
 天文9年(1540)尼子経久の跡を継いだ孫の晴久は、安芸〈あき〉(広島県)の新興勢力毛利氏を討伐するため、羽衣石城にいた国久などの諸将を従えて、毛利の本拠地である吉田(広島県高田郡吉田町)の郡山城を攻撃した。南条氏らの伯耆衆は、伯耆の尼子勢が手薄になったこの機会に旧領を奪回しようと軍議した。但馬の山名氏の援助を得て、武田山城守を主将に、南条・山田・小森らを先陣として、まず泊の河口城を攻め落とした。急報を受けた国久は、郡山の陣から羽衣石に馳〈は〉せ帰った。こうして両軍は橋津川付近で激しく戦ったが、結果は尼子軍の勝利に終わり、伯耆衆の旧領奪回は成功しなかった。この戦いを『陰徳太平記(注)』は「橋津川合戦」と記している。
 戦いに敗れた南条氏は伯耆の本領を回復することができなかった。その後も南条氏は反尼子の立場で行動し、大内氏あるいは毛利氏の尼子討伐戦に参加している。しかし、永禄の始めごろ、尼子氏に属していた時期もあったことが知られる(「草刈氏覚書」山口県文書館所蔵)。
 (注) 著者は周防(山口県)岩国の吉川家家臣・香川正矩。戦国時代の中国地方に焦点を当てて、尼子・大内・毛利などの諸家の興亡盛衰を描いた通俗史書である。


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