第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(1) 尼子氏の進出と南条氏

大永の五月崩れ
 その当時、伯耆では守護山名氏の勢力がようやく衰退期にあった。『伯耆民談記』には、「応仁の頃より乱国となって、郡郷の諸士舘〈やかた〉(山名氏)の下知に従はず、威勢日を追ふて衰微し、氏之より七代の孫、山名入道に至って、僅かの郡郷を領し、あれども無きが如くになりて、漸く当城(倉吉打吹城)に住しける」と述べている。代わって南条・小鴨・山田・小森・行松・福頼などの国人衆が勢力を伸ばしていたが、伯耆一国を統一するだけの実力を持つ者は現れなかった。
 前掲『新雲陽軍実記』によれば、「尼子経久は月山に入城すると、所々の地頭・旗本の面々へ使者をもって招きよせたが、伯州羽衣石の城主南条豊前守宗勝入道と、尾高泉山城主行松入道とは、その命に応じようとはしなかった」とある。伯者の国人衆の中でも、南条・行松の両氏が有力であった。
 尼子主力軍の本格的な伯耆進攻は大永4年(1524)5月である。経久自ら将となり西伯耆から侵入し、たちまちのうちに行松入道の尾高城、小鴨掃部助の岩倉城、山田重直の北条堤の城、山名久氏の泊河口城、山名澄之の倉吉打吹城、南条宗勝の羽衣石城など伯耆の諸城を攻略した。諸将は城を追われて因幡・但馬の山名氏を頼って流浪したといわれる。この乱を「大永の五月崩れ」と称し、伯耆では神社仏閣などが数多く焼失した。『鳥取県史』は、「この戦乱で従来旧家・寺社に伝来した重宝・記録などの多くを失った。伯耆一国に伝来する記録・古文書は近隣諸国と比較しても乏しいが、その原因の一端は戦国期に入って伯耆を中心に大勢力が興らず、しばしば隣国から侵入を受けて焼失したからではなかろうか」と推定している。
 戦後の伯耆は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には経久の子国久が配置された。以後約40年間南条氏は羽衣石城を離れるのである。


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