第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 1  室町時代の山名・南条氏

戦乱の地方波及
 応仁の乱中、地方の守護領国において、守護の庶流一族・有力国人などの自立化が進み、守護家に対し反乱を企てるに至った。これは全国的な傾向であった。伯耆では守護山名政之の一族である兵部少輔元之とその弟小太郎が南条下総入道らの国人衆を味方に引き入れ、西伯耆で守護家に対し兵を挙げた。一時は伯耆一国を制圧したかにみえた。元之の背後には赤松氏がひかえていたらしい。赤松氏は応仁の乱中、既に播磨・備前・美作の旧領を奪回しており、さらに山陰の山名領国の個人層の切り崩しを計っていた様子がみえる。政之は文明13年(1481)8月12日、元之らを円山城(西伯郡岸本町丸山か)に攻めて敗走させ、さらに河村郡竹田庄の所々にたてこもっていた敵を攻撃し、晦日〈みそか〉には南条下総入道を戦死させ、元之・小太郎を美作に追放した(『倉吉市史』)。
 南条下総入道はおそらく羽衣石南条の一族であろう。年代的には5代目ごろにあたるが、それを証明する史料はない。
 『鳥取県史』によれば、山名元之の一族は再度伯耆に侵入したが、延徳元年(1489)正月、「南条以下数十人の討死が伝えられている」(『蔭凉軒日録』)と述べている。
 このようにして伯耆もようやく戦国争乱の様相を呈するに至るのである。


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