第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 1  室町時代の山名・南条氏

中央の情勢
 明徳3年(1392)南北朝が合一した。その前年、幕府に挑戦した山名氏は敗退し、その勢力は著しく後退した。明徳の乱である。全国六六か国のうち一一か国を領有し、「六分の一殿」と称された山名氏も、乱後はわずか但馬・因幡・伯耆の三か国の守護職を安堵されるにとどまった。伯耆守護職は山名氏之に与えられた。なお、こののち山名家を再興したのは、但馬守護山名時煕〈ときひろ〉であった。彼は山名家の惣領(総本家)として一族を統率することになる(小坂博之『山名豊国』)。
 さらに、嘉吉元年(1441)、播磨・備前・美作を領有した守護大名赤松満祐が、将軍義政を自邸に迎え暗殺した。これに端を発して嘉吉の乱が起こった。赤松氏追討戦において、時煕の子持豊(宗全)をはじめとして山名一族の活躍が目覚ましかったという。その功労の第一人者として伯耆守護山名教之とその被官人小鴨に将軍から恩賞が授けられた(『鳥取県史』)。乱後の論功行賞により、惣領の持豊は播磨を、教之は備前を領有することになった。こうして山名一族の領国は八か国に及び、再び勢力を盛り返し、斯波皇山・細川の3管領家とともに幕政を左右するほどの実力を持つに至った。


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