第2編 歴史 第2章 中世 第3節 室町・戦国時代 1 室町時代の山名・南条氏 松崎の守護所 守護所とは守護が1国の政務を執る所である。久米邦武は著書『裏日本』において、山名氏が治所(守護所)を「松崎」に置いたと、次のとおり述べている。 松崎は東南鉢伏山の川上峠より出る東郷川を前にし御冠山を負ふ。室町府の初めに山名師義が守護となり、此に城〈きず〉いて治所となしし所なり。師義の死後に其子氏之(氏幸)弟の満幸より奪はれしに、明徳の乱に満幸敗死し、氏之其戦功にてこれ(松崎)を復して倉吉に移れり。東境の要害の地なり。 師義の死は永和2年(1376)、明徳の乱は明徳2年(1391)のことである。また、『ふるさと東郷』には、「山名時氏は因伯の守護となり、松崎に築城した。後に羽衣石の出城として築いた松崎城は亀形〈きぎょう〉が鼻〈さき〉(現・桜小学校)で、時氏が築いた松崎城は松崎神社裏の南高地である。(中略)時氏の子師義は、松崎城を整え.(中略)、のち倉吉,に打吹城を築いて家城とした」と述べている。「城」とあるのは、居館と守護所を兼ねたものであろう。 さらに同書の別の項には、「山名時氏伯耆守護の残した蝶形〈ちょうがた〉城(松崎二区、西向寺のうしろの山)」と城の名称を挙げているが、その出典などは不明である。「松崎神社裏」と「西向寺のうしろの山」は、おそらく同じ場所を指したものであろう。ひと続きの丘陵である。 松尾陽吉編『郷土史事典鳥取県』では、「因幡の岩常(十田川)、布施(千代川・湖山池)、伯耆の松崎、巌城あるいは打吹山(天神川・東郷池)、西伯耆では米子飯山(中ノ海)といった所にあった守護所」が、いずれも水運に便利な場所に置かれたことを指摘している。 松崎の守護所について、地元にあまり伝承が残っていないのは、多分置かれた期間が短かったためであろう。 |
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