第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 4  南条氏と羽衣石城

羽衣石城の出城
 一般に本城を囲んで出城や砦〈(注)とりで〉が配置される。羽衣石城の出城や砦として、町域内には次のようなものがあった。
イ 番城〈ばんじろ〉(羽衣石) 番(物見)をする砦であろう。標高400メートルで本城より高い。『伯耆民談記』などの記述には出ないが、字「番城」の地名が残っている。本城の北北東500メートル(直線距離、以下同じ)にある。一部に帯曲輪の跡が認められる。
ロ 高野宮城(埴見)南条氏の重臣山田越中が城居したと伝えられる。本城の北西2000メートルにある。標高191メートル。本丸跡は約20メートル×20メートルで、その北東の隅に地表からの高さ3〜4メートルの巨岩がある。城の守護神を祀った場所であろう。物見台を兼ねていたのかもしれない。羽合平野・北条平野などが一望される。また、南西に一段下がって、同様な広さの曲輪跡があり、その奥に空堀が1か所認められる。尾根をたどると倉吉市栗尾に続く。
ハ 上山(小鹿谷) 『伯耆民談記』などに、上山越(腰)と書かれている。戦国時代、南条氏の重臣進ノ下総が守ったと伝えられる。標高261メートル。本城の北北東1700メートルにある。地元の人は「お山」と呼ぶ。本城に峰つづきである。
二 松崎城(松崎) 南条氏の与力〈よりき〉が城居したと伝えられる。字「城山」・「西の丸」・「堀」の地名が検出される。
城山と西の丸とは数メートルの段があったが、今は整地されて桜小学校の敷地になっている。城山の東に細長く字「堀」がある。堀は空堀とみるのが妥当であろう。現在の堀の内団地の辺りである。
 享保11年(1726)の「因伯地理志」(県立米子図書館蔵)には、松崎古城址〈し〉について次の記述がある。「山面南、南為大手。高九間(約16メートル)、城内南北四町(約440メートル)、東西二町五〇間(約310メートル)畠地也。
有高下也。城中無水、下本丸一町五〇間(約200メートル)、有井水多(下略)」。下本丸は西の丸を指すものと思われる。
 学校建設のための整地作業により、南東側に城の石垣の一部が現れていたが、校庭拡張の際取り壊された。前述のとおり中世においては、原則として築城に石垣は用いないので、この石垣は中世のごく末期か、近世初期のものと推定される。
ホ 白石砦(白石) 『伯耆民談記』によれば、「最初吉川元春が取り立て、吉川彦七郎元景をおいて、南条氏の押え(けん制拠点)とした。天正10年(1582)京芸(豊臣氏と毛利氏)和睦の後は南条氏のものとなり、南条氏が警固の者をおいた」と記している。砦に関する地名としては、隣接する方地に字「城平」・字「立堀」がある。白石砦(字「城山」)は、標高246メートル、本丸跡はおおむね南北52メートル、東西17メートルで、南半分は約50センチメートルの段がつき低くなっている。東側は断崖〈がい〉で、北側から西側にかけて帯状の曲輪が2段・3段と認められる。南側にも13メートル×10メートルぐらいの曲輪がある。この曲輪には蔵があったと伝承する。
このほか、戦時に兵を置いて固めた場所に、蛇山(羽衣石)・蝶山(不明)・野花坂(野花)などが史書に見える。また、町域内には、長江に字「城山」、川上に字「高丸」などの地名が残っているが、詳細は不明である。
 (注) 砦とは、「敵を防ぐため、味方の人数を出して構えた小さな城。今日流の陣地や、それに軽易な雨露をしのぐ程度の構築があったかもしれない」といった程度のものである(前掲『山陰古戦史』による)。


高野宮城跡望遠(埴見)
松崎城から望んだ小鹿谷の上山
(昭和30年ごろの撮影のもの)
(桜小学校提供)

藤津の裏山から遠望した松崎の城山(昭和30年ごろ)
(東郷町役場提供)


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