第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 4  南条氏と羽衣石城

中世の城
 一般的に中世の城には、近世の城のような石垣はなく、土塁とか土居(土壁、土の垣の意味)で囲われていた。建造物の構造がどの程度のものであったか明らかでないが、発掘の結果によれば、文禄元年(1592)に廃城になった小金城(千葉県)の場合、本城跡では、3間に四間の掘っ立て屋(礎石を置かず、柱を直接地中に埋めて建てた家屋)が3棟発見されている。また、天正4年(1576)築城の丸岡城(福井県)天守では、中央列の5本が掘っ立て柱であった事実が貴重な資料といわれている。矢倉(近世では櫓〈やぐら〉と書く)は高い足場の上に組まれ、物見台であるとともに弓矢を射る人(矢倉衆)の待機する場所であった。屋根材料は近世ではすべて瓦〈かわら〉であるが、中世の城の場合、瓦葺〈ぶき〉は例外中の例外で、普通は板葺か茅〈かや〉葺か、あるいはこれらの混用であった(自衛隊米子修親会『山陰古戦史』による)。
 久松山山頂にあった鳥取城天守(慶長7年ごろの改築)の屋根は柿葺〈こけら〉又は板葺であり、外容もすべて板張りであったと推定されている(山根幸恵編著『鳥取城』)。


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