第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 4  南条氏と羽衣石城

羽衣石城の草創
 南条貞宗が羽衣石に築城したのは貞治5年(1366)といわれる。築城のいきさつについて、『(注)伯耆民談記』は次のように述べている。
 充満寺にヒイゴ池と云ふあり。大さ十歩余り、其水清くして、九夏の天にも乾く事なし。始め南条此充満寺に城をきづかんと、普請に取掛りした、此の池に一つの燕おちて死す。南条凶事におもひ、此所を除き、今の城山に城を築きしなりといへり。大きなる石壁又後に幽谷の如くなるから〈(空)〉堀今に残りて見ゆ。其後寺地となりて、堂塔高閣ありしが、当城滅亡しける時、破却して今は僅かに礎石を残せり。
 燕〈つばめ〉は、この地方の方言で「ヒーゴ」又は「ヒューゴ」と呼ばれる。今も十万寺に字「日向ヶ池」の地名が残る。
当て字であるが、燕に由来する地名であろう。池跡もわずかに認められる。こうして、今の字「古城」の地(口絵の写真参照)に羽衣石城を築き、初めの予定地はその後「寺地」となったと伝えている。
 また、最近の調査によると、十万寺部落の北方に壮大な古城跡があり、地元の人は、南条氏は最初ここに築城を予定したと伝えるという(吉田浅雄『伯耆南条羽衣石城跡之図』)。字「日向ヶ池」とは500メートル前後の距離がある。
 (注)『伯耆民談記』と「伯耆民諺〈げん〉記」について触れておく。いずれも伯耆東三郡に重点をおいて編さんされた地誌である。
 『民談記』は因伯叢書・因伯文庫に所収され、今日広く利用されている。一方、民諺記は出版されてはいないが、内容は民談記のもとになる記録であって共に重要である。民談記と民諺記の内容を比べてみると、民談の記事は民諺のほぼ6割程度の量である。おそらく、民談記が編集された時に、その依拠した民諺記の内容のうち削除された記事があったのであろう。
 「伯耆民諺記」巻之三には、民談記に省略されている「美濃万歳伯州初て入来の事」という項があり、この中で美濃万歳と鳥取池田家とのかかわりを記している。美濃万歳は、美濃(岐阜県)から鳥取城に毎年やってきて「千寿万歳をなして陽春を賀す」人たちのことで、彼らは寛保2年(1742)から伯耆国に来るようになったと記している。おそらく、民諺記の編者松岡布政は、同時代の出来事としての美濃万歳の伯州入来の記事を記録したもので、民諺記成立の時期を示す重要な記録と考えてよかろう。
「伯耆民諺記」、『伯耆民談記』の第一巻の「地理の部、六郡、国境並駅路行程の事」といった項目は、寛保ごろの記録であり、共に地誌が重要である。これに対して歴史の記述―戦国期以前の記事には、人名、年号などに錯誤が多く見える。したがって、歴史の資料としては十分傍証して、その時々に検討する必要があろう。本稿では、『伯耆民談記』の部分引用をしているが、参考までに通覧されたい。


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