第2編 歴史 第2章 中世 第2節 鎌倉・南北朝時代 3 東郷荘の衰亡 守護の東郷荘侵略 時氏による荘園侵略の対象は、松尾社の東郷荘も例外ではなかった。さきに地頭との間で下地中分されてから90年後の状況を、松尾社文書によって知ることができる。貞和4年(1348)10月25日付けで、幕府は伯耆守護山名時氏に次のように命令した。「松尾社司らの重申状(訴え人が被告の答弁書に対して重ねて提出した訴状)によれば、東郷荘は安房右衛門尉が相変わらず不当に徴税している由で、甚だけしからぬことである。直ちに停止せよ。もし停止しなければ厳重に処罰するであろう。将軍の仰せにより伝達する」という内容である。源義種下知状と呼ばれる(資料編34号)。下知状とは、将軍の家臣が上意を奉じて命令を伝える文書である。東郷荘絵図裏書の末尾に、「正嘉二年から貞和二年まで八十八年か」とあるのは、この紛争に関連した記録ともみられる。 安房右衛門尉の身分は不明であるが、前項にあげた例と同様に、侵略者は守護山名時氏自身と推定されるから、幕府の命令どおりには実行されず、紛争はその後も続いたことであろう。佐藤進一は、「守護は家臣団を拡充するため、多くの場合、荘園の侵略という形で行われる家臣たちの所領拡大に協力しなければならなかった。守護が幕府の命令にそむき、ときによっては幕府に対抗することさえあったのはそのためである」としている(前掲「南北朝の動乱」)。 |
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