第2編 歴史 第2章 中世 第2節 鎌倉・南北朝時代 3 東郷荘の衰亡 東郷荘の終末 前項で述べたとおり、守護による東郷荘侵略は次第に進行したとみられる。その後の経過を史料により追ってみたい。 (1) 明徳の乱の直後、明徳3年(1392)の相季譲状と呼ばれる松尾社文書がある。その要点は、松尾社の神職相季が自分の所領を長男の正祝〈しょうはふり〉(神職名、神主が上位で次が禰宜〈ねぎ〉、その下位)相勝へ譲与するという置文(遺言状)である。7項目の所領のうち、東郷荘については次の2項目がある。 一、伯耆国東郷庄内浅津預所職□西山分其外預田参町在所□段別五反 一、同庄内一宮押領分社家知行□時は三分の一管領せしむべく(後略) (資料編35号) 普通、預所職とは、荘園領主に代わって荘務を執行する上級荘官の権利をいう。東郷荘のうち、「浅津預所職□西山分」と「預田三町」が相季の権利であったことが分かる。もう1つは、「一宮押領分」のうち、得分の3分の1を相勝に管領させよとの意味であろう。これらの権利が松尾社の社家相季の得分として存続していたことがうかがわれる。 (2) 相季譲状から70年後、寛正2年(1461)の将軍足利義政御教書は、「松尾社領東郷庄の事、代官職を号し、近年守護押領すと云々、早く彼の妨げを止め、元の如く社家直務〈じぎむ〉(直接支配)を全う」するよう命令している(資料編36号)。この時点における伯耆守護は山名教之であった。 (3) これより約30年後の東郷荘についての記録を、清水正健編『荘園志料』が収録している。延徳2年(1490)のことである。その趣旨は、「東郷荘における松尾社の領家としての権益を、守護方は〈(注1)〉請地と称して押領した。以前にも数回訴訟があり、松尾社領である旨裁定があったが、今もって履行されない。重ねて証拠を提出するから、松尾社の直轄であることを認め、守護請を停止されたい」といった内容である。松尾社が幕府に提出した文書とみられる。 全国的にみると、応仁の乱(1467〜)の戦火が地方に及んで、国中が内乱状態となった15世紀後半には、各地の荘園は武士たちによって押領され、荘園制は畿内を除いて、ほとんど有名無実であったといわれる。 (4) 大永4年(1524)6月、松尾社前神主篤賀が残した「松尾社領別相伝知行地目録」(「松尾月読社文書〈(注2)〉」『富山県史資料編U』所収)には、同人が相伝した七か所の知行地のうち、「一所 伯耆国東郷庄内長和田預所分近年廿五貫〈(注3)〉」と記録する。松尾社家篤賀の別相伝の所領が大永4年当時まで長和田にあったことを伝えている。 これ以後、東郷荘に関する記録に接することができない。 (注1) 室町時代には、守護請が各地で行われた。守護請とは、荘園領主に一定額の年貢を納めることを条件に、荘園の経営を守護に任せることである。東郷荘の場合は、守護が一方的に守護請地と称して押領してしまったのであろう。 (注2) 松尾大社の摂社(本社に附属する神社)。松尾山南麓(境外)にある。延喜6年(906)正一位勲一等の神階に進んだ全国屈指の名社であるが、松尾大社の勢力圏内にあるため、古くから摂社とされている(『松尾大社略記』)。 (注3) 室町・戦国時代には、銭高をもって土地の面積を表した。全国的に統一された基準はないが、仮に田地一反を500文(後北条氏領国の例)とすれば、25貫文は田地五町の面積に相当する。 |
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