第2編 歴史 第2章 中世 第2節 鎌倉・南北朝時代 3 東郷荘の衰亡 伯耆守護山名時氏 山名時氏は早くから足利尊氏に属していた。建武4年(1337)、石橋和義に代わり伯耆守護に任ぜられ、名和氏を中心とする南朝勢力を伯耆から一掃し、それより出雲・因幡に進出して、着実に山陰地方に勢力を伸ばしてきた。尊氏・直義兄弟の争いには、はじめ尊氏方に、中途で直義方に加わったが、のちに尊氏に下った。しかし、降参とはいえ、それまで実力で従えた伯耆・因幡・美作・丹後・丹波の5か国の守護職を認めてもらう条件であったという(中公文庫『日本の歴史』9佐藤進一「南北朝の動乱」)。 伯耆守護時氏は、前任者に引き続いて領国内の荘園侵略を行ったらしい。その一例に京都醍醐寺蓮蔵院領の伯耆国国延保(現、大山町国信を中心とする地域)の押領がある。押妨人は、形式的には守護代(守護はほとんど在京したので、現地には代理人を置いた)小林右京亮であったが、実態は守護山名時氏自身が押妨人に外ならなかった。時氏は再三にわたる幕府の押妨停止の命令を無視している。このように、時氏は国内の寺社領などの荘園を着々と侵略しつつあったのである(『鳥取県史』)。 |
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