第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 2  東郷氏と東郷荘

三朝地頭信定
 信平の子は、次の4名である。
 家行=東郷五郎、法名阿生、墓ハ父ト同前。
 信康=東郷六郎左衛門尉、伯州竹田地頭、本名信重、法名阿、墓父ト同。
 信定=東郷七郎左衛門、伯州三朝地頭、法名阿念、墓同所、伯州湯谷別所。
 宣行=東郷八郎左衛門尉、法名忍、天下無双手跡隠れなし、鎌倉殿管領御成敗式目草案了。
 信康・信定はそれぞれ竹田・三朝の地頭を称している。しかし、前述の種平の笏賀地頭とともに傍証となるものはない。宣行を除く三人の墓は、「父(信平)と同じ」としているから、「東郷別所」である。この時期、東郷氏の本拠は別所付近にあったと推定し得る。『ふるさと東郷』は、別所に近い山辺谷に残っている墓石群を東郷氏一族のものに比定する説を挙げている。
 御成敗(貞永)式目は、貞永元年(1232)に制定された鎌倉幕府の法典である。執権北条泰時が評定衆の太田康連〈やすつら〉らに命じて編さんさせたと伝えられる。宣行はその草案を作ったとしているから、おそらく将軍家の御家人として鎌倉にあり、幕政に参与していたのであろう。墓の場所は、記していない。
 なお、信康(法名阿)を東郷荘絵図の裏書に署名している沙弥に比定する説がある。年代的には比定して差し支えはないと思われる。



山辺の墓石

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