第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 2  東郷氏と東郷荘

長和田を寄進した信平
 家平の子に種平・信平がある。
 種平=中務丞、笏賀地頭、墓八橋笠見これあり。
 信平=東郷左衛門尉、本名成平、法名定慶、此時私領を以て松尾社に寄進、今東郷庄内ナカウタ是なり。墓東郷別所これあり。今ハ大谷。
 種平は笏賀の地頭に任ぜられている。笏賀庄は四代前の頼平が冷泉院宮北の政所に寄進した旧領である。
 また、信平は私領ナカウタを松尾社に寄進した。「ナカウタ」は長和田であろう。松尾社領東郷荘はその当時既に成立していたと思われるが、長和田は荘域外で、東郷氏の「私領」であったとしている。
 領地の寄進という形式は、既に平安時代から盛んに行われたといわれる。地方の小領主たちは、国司の圧迫を受けて権益を侵害されることが多かった。これを免れるために、彼らは自領を中央の有力者(貴族・寺社)に寄進した。寄進を受けた荘園領主を領家と呼ぶ。小領主たちは、領家の保護を受ける代わりに年貢の一部を領家に納めた。領家側は彼らをその土地の在地管理者である荘官(下司〈げし〉職など)に任命した。こうして、彼らは以前と変わりなく、その地に勢力を保つことができたといわれる。このように理解すれば、笏賀荘を寄進した頼平は、以後同荘の荘官の立場で、在地領主として勢力を維持していたものと思われる。
 石井進によれば、所領を寄進して下司職などの荘官となっていた現地の豪族が、幕府により地頭に任命されるケースがあったといわれる(『日本の歴史』7「鎌倉幕府」)。種平が笏賀地頭に任ぜられたとしても唐突なことではなかろう。
 種平の墓所は八橋(東伯町)の笠見にあるとしている。また、信平の墓所を「東郷別所」と記し、「今ハ大谷」と書き加えてある。「今ハ大谷」の「今」は、「今東郷庄内ナカウタ是なり」とあるように、東郷荘の存在していた時代のことと思われる。少なくとも500年以前である。「大谷」の地は、今確かめることができない。


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