第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 1  東郷荘

野花の松尾神社
 『鳥取県神社誌』(昭和9年刊)は、野花の松尾神社について次のようにその由来を記している。
 創立年月不詳、当社は羽合の郷光吉村古名布河に鎮座せられ、羽合の郷、花見の郷の惣氏神と称し奉祀し来たりしが、年月不詳、洪水のため社殿流れて野花村江渚浜藪と云う所に漂着せられ、茲に光吉村を始め羽合郷氏子一同は社を舁〈かつ〉ぎ奉り、元社地に斎き奉らんとせしも、御神慮を恐〈かしこ〉み其儘〈まま〉社地を開き奉祀せし由、後今の地に遷し奉れりと(後略)
 松尾神社が羽合.花見両郷の氏神であったことは、宝永3年(1706)の年紀のある同社の棟札に、両郷のほとんどの庄屋が名を連ねていることからもうかがわれる。移転の理由が洪水のためであったかどうかは別としても、松尾神社がはじめ光吉にあったとする伝承は史実ではなかろうか。
 絵図では、松尾神社は野花にあって光吉にはない。したがって、絵図作成の時点では、松尾神社は既に野花に移転済みである。
 後で述べるが、「原田氏系図」に東郷氏が長和田の地(野花を含む範囲)を京都松尾社に寄進したとする注記がある。寄進の時期は西暦1200年代の初頭と推定される。松尾神社を京都松尾社の領域外に移すはずがないと考えると、松尾神社移転は東郷氏の長和田寄進以後とみなけれぼならない。
 松尾神社の伝承と「原田氏系図」が史実を伝えるとすれば、長和田が松尾社領東郷荘に加えられてから、絵図作成までの間(数十年と推定)に、松尾神社は光吉から野花に移ったと考えられる。社地としては低地の光吉より野花の現在地の方が適当であろう。
 また、橋津川西方の伯井田(羽合平野)が複雑に3分された上、光吉を含む中央部が領家分となっているのは、同地区が領家松尾社と特別の関係にあったことを示すものではなかろうか。


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