第2編 歴史 第2章 中世 第2節 鎌倉・南北朝時代 1 東郷荘 等分の原則 裏書によると、荘域を東西に分割し、東を地頭分、西を領家分としている。これが分割の大原則であろう。南方の境界線を北に延長すると、東郷池を2分して橋津川に至る。表示はないが、橋津川の流れが両者の境界線となっているのが分かる。これで面積はほぼ等分されたかもしれないが、これだけでは公平な分割とはいえない。 まず、広大な伯井田(羽合平野)の全部が領家分となる。そのために、伯井田を分割して地頭にも配分し、公平を期している。同様に、馬野(牧場)も2分して領家にも配分した。この結果、地形的には地頭分である橋津川河口部東岸が領家分となり、同西岸は地頭分となった。津(港)は両者にとって重要な場所であったから、双方が利用し得るよう配分したのであろう。 こうして荘園内に地頭分・領家分及び一ノ宮領が交じり合う複雑な境界線が生じたのである。 東京大学史料編纂所の黒田日出男によれば、等分の原則は田畑・津・牧にとどまらず、馬の頭数、神社.寺院、さらに領主層の家、一般在家〈ざいけ〉の数にまで及んでいるという。すなわち、馬は一ノ宮領の馬二頭を除いて五頭ずつ、神社も一ノ宮を除いて4社ずつ、寺院は1寺ずつ、領主級の家も2宇(戸)ずつ、一般在家も30数宇ずつでほぼ同数とみている。これらは実数というのではなく、等分の原則の絵画表現としての描写であるとしている(黒田日出男『姿としぐさの中世史』)。 在家は中世領主の「所領」を構成する一要素に数えられていた。中世では、農民・屋敷・田畑を「在家」として一括し、領主はこれを財産視したといわれる。 |
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