第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 1  東郷荘

境界の設定方法
 裏書によれば、次の3つの方法で境界を定めたとしている。第1は道路のあるところはそれを境にした。この方法によったところは、
 1 伯井田の紫縄手(縄手とは田の中のまっすぐな道の意)
 2 広熊路(西郷との境界)
 3 馬野分割線(上橋津辺りから那志多に至る境界)
 次に、道路のないところは、絵図上に朱線を引いた箇所に両者が寄り合って堀を掘り通すことにした。これが第2の方法である。その場所は、
 1 南方の境界(湖岸から置福寺、木谷寺辺りまで)
 現在の野花と引地の境、大伝寺の中将姫を祀〈まつ〉った阿弥陀堂の裏辺りから、かつては池の側に延びた堀があり、舟着場になっていた。現在は道路である。ここが境界の堀跡と伝えられる。
 3 橋津川に架かった橋から北条河(天神川)に至る境界
 この境界も堀であって、今も一部残っている(岩永実『鳥取県地誌考』)。
 第3は、見通しによる方法である。南方の置福寺・木谷寺から奥の山地は、「峯あり谷あり」の深山であって、とても掘を掘り通すことはできない。そこで深山の部分は、絵図上の朱線の通り、ただまっすぐに見通して、東分と西分の分領を判断することにした。
 なお、絵図上では「福寺」とあり解読ができない。「宣福寺」と読む説もあるが、ここでは裏書に従って「置福寺」と解する。「宣」と「置」は間違われやすく、ほかにも誤読された例がある(加藤義定『出雲風土記参究』参照)。



九品山大伝寺前の堀跡
現在は道路になっている
(岩永実『鳥取県地誌考』から転載)

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