第2編 歴史 第2章 中世 第2節 鎌倉・南北朝時代 1 東郷荘 時代の背景 文治元年(1185)、源頼朝は朝廷に奏請して、義経・行家を捜索・逮捕するための「日本国総追捕使〈そうついぶし〉・日本国総地頭」に征命された。これにより配下の御家人たちを、自己の代理人として、それぞれの国あるいは郡・郷・庄・保単位の「総追捕使・地頭」に任命して、全国の軍事・警察権を一手に掌握することになった。 また、頼朝は軍事行動費として、地頭に対し全国の国衛領・荘園から、一律に反当たり5升の兵粮〈ろう〉米を取り立てる権利を与えた。これにより、地頭は荘園領主などへの年貢米の中から、その分を割き取ったといわれる(中公文庫『日本の歴史』7石井進「鎌倉幕府」)。 承久3年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の討滅をはかって敗れ、隠岐に流された。承久の乱である。この乱の結果、公家政権の没落・武家政権の優位が決定的となった。中央貴族・寺社など荘園領主の支配力は衰え、代わって武士、特に地頭が漸次勢力を伸ばし、荘園を侵略した。荘園の侵略は荘園領主に上納すべき年貢をかすめることから始まり、次第に「下地」すなわち土地そのものの押領に発展する。これに従い、荘園領主と地頭との紛争が増加した。その解決方法として、地頭請や下地中分などの方法があったといわれる。 |
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