第2編 歴史 第2章 中世 第1節 中世の概説 毛利氏の勃興と織田氏との対立 尼子経久の孫晴久は、天文13年(1544)因幡にも進出したが、その没後尼子氏もようやく衰えた。代わって毛利氏が因伯を制するに至り、南条氏は毛利氏に属して、永禄年間、羽衣石城を回復した。しかし、畿内では織田信長が全国統一を目指して、東海・北陸まで平定し、やがて中国地方進出を計画するに至った。織田・毛利の対決が必至となった情勢下に、南条氏は織田方につくことを決意する。 これにより、毛利氏と南条氏の間で、羽衣石城の攻防をめぐって戦いが繰り返されることとなる。やがて、鳥取城を陥れた羽柴秀吉の軍勢が宮内の御冠山に、毛利方の部将吉川元春が橋津の馬ノ山に着陣し、戦いが始まった。時に天正9年(1581)10月のことである。しかし、秀吉は決戦を避け、軍を撤して姫路城に帰陣した。 その後、秀吉と毛利氏との間で講和が成立し、同13年(1585)春、伯耆の西3郡(汗入〈あせり〉・会見.日野)は毛利領、東3郡(河村・久米・八橋)は上方領と決定した。東3郡は秀吉から南条氏に与えられた。 |
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