第2編 歴史
第1章 原始・古代
第5節 奈良・平安時代
 4  伯耆一ノ宮と経塚

一ノ宮経塚の発掘
 大正4年12月11日、伯耆一ノ宮の境内に隣接した宮内字「御参所」の山林(現・社有地)で、経塚が発見された。今日でいう正式な学術調査でなかったことは残念であるが、その経緯を記しておく。
 経塚が見つかった場所は、古くから一ノ宮の祭神・下照姫命の墳墓と言い伝えられていたところである。その日、羽合町上浅津の村岡為三郎、吉田辰蔵、浅井長次郎、沢直蔵、出野上仙蔵の5人が発掘した。地表下1.5メートルほど掘ったところ、石室が現れ、中に荒砂を敷き詰めた上に、中央に銅経筒、東側に金銅観音菩薩立像と銅造り千手観音立像の2体、西側に銅板線刻弥勒立像1体が安置されていた。東側の仏像2体は南向き、西側の1体は北向きであったという。経筒の周囲には、多数の瑠璃(るり)玉が散在していた。玉には小さな穴があり、糸でつないで経筒のかさにつるしてあったものと思われる。5人は、これらの出土品を見て感に打たれ、抱きかかえて湖岸で水洗いしたという(出土品は口絵の写真と次編「指定文化財」の章を参照)。
 さらに3日後の14日には、同じく上浅津の門脇留治、岩本仙治ら9人が、経塚を再び探査した。この結果、経筒の安置場所からわずか東側に平石で区画がしてあるのを発見し、中から銅鏡、短刀刀子残闕(けつ)、銅残、檜扇(ひおうぎ)残片、漆器残片などを見つけた。
 これらの出土品は、翌15日に倉吉警察署に提出され、後日、一ノ宮の所有と定められた。後に一括して国宝に指定されている。詳細は第3編の「指定文化財」の章を参照されたい。
 なお、郷土史家の故・浅田愛蔵(別所)の話によると、発見者は銅経筒や仏像を京都の古美術商に値踏みを依頼した。しかし、「見たこともないような大変な逸品で、値段が付けられない」との返事であったため、慌てて警察に届け出たという。12月11日から15日までの5日間に、このようないきさつがあったのもと思われる。