第2編 歴史 第1章 原始・古代 第5節 奈良・平安時代 4 伯耆一ノ宮と経塚 伯耆一ノ宮の成立 一ノ宮とは、平安末期から中世初頭にかけて付けられたことに始まる社格の一種である。これは、神祗官や国司が公式に定めたものではなく、民間で付けられたものと推定されている。一ノ宮の選定理由、また基準については諸説があるが、諸国において由緒正しい古社で、国内で1番の崇敬を集め、経済的基盤も大きい社を一ノ宮と称したようである。また、一ノ宮の呼称とともに、ニノ宮・三ノ宮と順次呼称することも生じた(平凡社『大百科事典』)。 『鳥取県史』によると、一ノ宮は、律令制が崩壊する過程にあって、在地領主層(国人)間相互の利害の調整をしたり、共通の利益を守るために行動を共にしたりする場合の、精神的紐(ちゅう)帯としての役割を果たしたのではないかという。 伯耆一ノ宮の成立時期を確かめる史料はないが、後述するように、康和5年(1103)に埋納された「伯耆一ノ宮経筒出土品」の経筒の銘文に、「山陰道伯耆国河村東郷御座一宮大明神」とあることから、遅くとも12世紀初頭には一ノ宮が成立していたことは疑いない。 倭文神社には、かつてその社領の範囲を示す「四方鳥居」があり、東は泊村小浜、北は羽合町宇野、西は東郷町門田、南は三朝町片紫に建っていたと伝承する。この広大な社領を経済的基盤として、在地領主層の信仰を集めながら伯耆一ノ宮の地位を獲得したものと思われる。 なお、昭和27年、宮内の通称四十隈の石棺内から石帯が発見された。正確には、「銙(か)」と称するもので、石帯に装着した石製の装飾板である。奈良・平安時代の官人が、その官位の象徴として着用した。県下での発見例は、ほかに伯耆国庁跡・長瀬高浜遺跡のわずか3例である。詳細は第3編の「指定文化財」の章に譲るが、宮内出土の銙は、伯耆国庁跡のものより大きく石質も優れているといわれる。前述した令制国造や郡司クラスの在地領主層が着用したものかもしれない。銙は役職のランクによって、その材質に定めがあったとされる。宮内出土の銙が、どのようなクラスの官人が着用したのか、興味のあるところである。
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