第2編 歴史 第1章 原始・古代 第5節 奈良・平安時代 4 伯耆一ノ宮と経塚 倭文神社の神階 宮内の倭文神社は、伯耆の式内社の1つに数えられていた。式内社とは、延喜22年(923)編さんの『延喜式神名帳』に掲載された神社を指す。伯耆では次の6社があった。 河村郡 倭文神社(東郷町宮内)波波伎神社(倉吉市福庭) 久米郡 倭文神社(倉吉市志津)国坂神社(北条町国坂) 会見郡 宗形神社(米子市宗像)大神山神社(本社・米子市尾高、奥官・大山町大山) 宮内の倭文神社を筆頭にしたこの6社を、普通「伯耆6社」と呼んでいる。このうち、宮内の倭文神社の神階について、『大日本史』は次のように紹介している。 倭文神社(今在ニ宮内村御冠山一)。「承和四年、叙ニ従五位下一」(『続日本後紀』)。「斉衡三年、授ニ従五位上一」(『日本文徳天皇実録』)。「天慶三年、自ニ従三位一、進二正三位一(『日本紀略』)。 『大日本史』は、水戸藩主・徳川光圀の命によって、明暦3年(1657)に編さんが始まり、明治39年に完成した歴史書である。神階については、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』などのいわゆる「六国史」を基に記述しているようである。ただし、「六国史」には幾つかの写本が流布しているといわれ、『大日本史』がどのような写本を底本としたかは不明である。とにかく、この記述によって宮内の倭文神社が、承和4年(837)に従五位下、斉衡3年(856)に従五位上、天慶3年(940)に従三位から正三位へと進んでいったことが知られる。同神社は、後に伯耆6社のなかでも、特に伯耆一ノ宮を称するようになる。同神社がその後、正一位に進んだことは文献にない。ただ、年代不明の「正一位伯州一宮大明神」と刻まれた、勅額と称する古額が同神社に所蔵されている。 |