第2編 歴史 第1章 原始・古代 第5節 奈良・平安時代 4 伯耆一ノ宮と経塚 律令制の崩壊 平安時代に入って律令制が崩壊し、次第に中世的な封建社会が形成されていった。ここでは、その概略を述べておく。 律令制の大原則であった公地公民制は、8〜9世紀を通じて、大きく崩れていった。三世一身の法(723)や墾田永世私財法(743)によって班田の実施が次第に行われなくなり、大土地の私有化が展開していく。それとともに、班田農民の逃亡や浮浪などで、公民の階層分化が進み、新しい在地支配者層が台頭していった。 地方政治の荒廃も、公地公民制の崩壊に加担した。行政官である国司は、その特権を悪用し、地方収奪を目的にした徴税吏へと変身していった。いわゆる国司の「受領化」が進んだ。受領は、本来は新任国司が前任国司から国衙の政務を受け継ぐ交替事務のことを指していたが、次第に国司そのものを指すものとなり、さらには苛酷な徴税吏と化した国司を意味するようになった。こうした受領の苛政が、国衙官人・郡司層・農民との対立を深め、武力的衝突が各地で起こってくる。 国司の受領化とともに、任命されても任地に赴かず、在京のまま、地方官としての得分のみを得る、いわゆる「遙任国司」も続出した。この国衙の留守所体制のなかで、郡司層や新しい在地支配者層が国衙支配体制の一環として組み込まれていった。その一方で、自己の領主権を他の領主などの侵略から守るため、所領を中央権門に寄進して荘園とする在地領主の動きも活発になってくる。所領を寄進した在地領主は、その荘園の荘官になったりして、力を蓄えていった。 この間の郷土においては、後で述べる伯耆一ノ宮のほか、東郷氏の存在が知られる。東郷氏の祖が「河村東郡司」として郷土に入ってきたのは、11世紀の中ごろと推定される。受領の国衙領支配と、荘園支配の2つを経済的基盤として権勢を誇った藤原氏の摂関政治末期のころである。東郷氏は、中央の貴族や寺社に所領を寄進して、地方豪族としての地位を高めていった。 |