第2編 歴史 第1章 原始・古代 第5節 奈良・平安時代 3 仏教文化の開花 町内の廃寺跡 野方・弥陀ヶ平両廃寺とも、前述したように白鳳時代の創建と推定されている。位置的には、両者は直線距離で約450メートルの隔たりがあり、従来は別個の寺院とされていたが、出土した瓦が同型式であることなどから、近年1か寺としてとらえる見方が強まってきた。 両廃寺とも、これまで本格的な発掘調査は行われていない。しかし、伯耆国の中でも最も早い7世紀中期の創建であること、また、出土した軒瓦が伯耆国最古のもので、隣接する因幡・出雲国にも見られない型式であること、などが明らかになり、県内の古廃寺研究の上で大きくクローズアップされてきている。 なお、舎人郷野方の地名及び寺跡があることまで共通した所が出雲にある。意宇(おう)郡舎人郷野方(現・島根県安来市野方町)がそれである。寺名は教昊(こう)寺という(加藤義成『出雲風土記参究』参照)。谷田亀寿は『町報東郷』第6号で、教昊寺にかかわった豪族「日置(へぎ)ノ臣(おみ)」を指摘し、東郷町の野方廃寺との関連を推論している。しかし、教昊寺の創建は7世紀末〜8世紀初頭より若干下る時期(注)と推定されており、7世紀中葉に創建されたとする野方廃寺とは時代的なズレがある。両者の類以については、さらに考察を要しよう。 町内には野方のほかに、白鳳期以降の古瓦及び礎石が出土した久見の例がある。久見の場合は、寺跡かあるいは律令制下の郡衙の跡か、今後の研究の余地を残している。 以下、野方廃寺・弥陀ヶ平廃寺・久見古瓦出土地について考察を進めてみたい。 (注)真田広幸「奈良時代の伯耆国に見られる軒瓦の様相」『考古学雑誌66―2』所収 |