第2編 歴史
第1章 原始・古代
第4節 古墳時代
 5  大和朝廷と政治組織

舎人と倭文
 律令制以前からあったと推定される地名に、舎人〈とねり〉がある。範囲は明確でないが、おおよそ合併前の旧舎人村の地域であろう。この地域には古くから有力な在地首長がいたとみえて、前方後円墳をはじめとする古墳群、白鳳時代の創建といわれる野方廃寺・弥陀が平廃寺及び伯耆一ノ宮倭文神社など遺跡、旧跡が多い。
 とねりの名は、とのはべり(殿侍)の縮まったものといわれる。天皇や皇族に近侍し、護衛を任務とした下級官人であった。令制以前の舎人は6世紀後半から設置され、東国を中心に国造(後述)やその一族から朝廷に貢進された。また、これらの舎人の資養物を負担する農民の集団が指定され、これを舎人部〈べ〉といった(平凡社『大百科事典』)。舎人の地名は、この地域から皇室に舎人を貢進したことによって付けられたか、あるいは、この地域が舎人部に指定されたためか、いずれかであろう。『鳥取県史』は前者の解釈をとり、天皇などの側近に仕える舎人を出したことを名誉として、この地名が付けられたと推定している。
 倭文部は、部民制の1つである。伯耆一ノ宮倭文神社は、倭文〈しずおり〉の神である建葉槌命〈たけはづちのみこと〉を祭神の一つにしていることから、かつては織布技術をもった集団が居住していたと思われる。付近には、大きさにおいて馬ノ山4号墳・北山1号墳と比肩する狐〈きつね〉塚古墳(前方後円墳)がある。水辺に近い交通の要所にあって、織布の技術集団を従えて勢力を誇った有力豪族の存在が想像できる。


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