第2編 歴史
第1章 原始・古代
第4節 古墳時代
 5  大和朝廷と政治組織

伯耆国造
 大化前代の政治組織の一つに国造制度〈くにのみやつこ〉があった。氏姓制度の一環をなすもので、大和政権下の地方行政単位であった国の長官を指している。古墳時代の後期、すなわち六世紀以後、鉄製農具の普及により、農地の開拓が進み、その結果、小規模の古墳を築き得る新しい社会層の台頭が見え始めた。こうした勢力の伸展に伴って、それまで前方後円墳を築造した豪族の系統が大和朝廷との結び付きを強め、国造制が発達したといわれる。しかし、そのような前方後円墳を築造し得た豪族がすべて国造に補されたわけではなく、そのうちの特定の首長が国造になり得たという(『鳥取県史』)。国造の在地支配では、裁判権又は刑罰権、徴税権、「勧農」を主体とする一般行政権、さらに祭祀〈し〉権まで持っていたとされる(石母田正『日本の古代国家』)。在地首長として、一切の権力を持っていたのである。
 伯耆の国造については不明な点が多い。『鳥取県史』が考察を加えているので、ここでは触れないが、ただ前述したように後に野方廃寺を建立した豪族、宮内周辺の倭文部を従えた豪族、また倉吉市福庭の「波々伎神社」、会見郡の大寺廃寺や八橋郡の斎尾廃寺につながる勢力など、国造級の在地首長の存在は幾つか挙げられるという。これらの国造級の在地首長のうちから、律令制下の「郡司」や、祭祀権のみを掌握する、いわゆる「令制国造」(後述)が任命されていく。


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