第2編 歴史
第1章 原始・古代
第4節 古墳時代
 4  主な遺物

埴 輪
 埴輪〈はにわ〉とは、古墳の墳丘の外表に立て並べられた、素焼きの土器の総称である。「日本書紀」では、垂仁天皇の皇后が亡くなったとき、土製の人馬などを作って殉死の代わりに陵墓に立てたと、埴輪の起源を伝える。埴輪は円筒植輪と形象埴輪に大別されるが、特に形象埴輪は人物、鳥、武具、家などをかたどっでおり、これらを巡らすことで、聖域の区画を明確にする意味があったという。また一説に、後述する葺〈ふき〉石と同様、古墳の周囲に置いて、封土の崩れを防いだとする。いずれにしても、葬送儀礼に伴う器物に相違なく、墳輪の形から、家・服装・武具などの当時の生活様式が理解できる点で重要な遺物である。
 円筒埴輪は、弥生時代の器台から発生したとされる。上部が開き気味の筒形円筒が基本である。胴に数段の凸帯がタガ状につき、凸帯の間に円形・三角形・長方形などの穴を持つ。朝顔形と呼ばれるものは、上寄りでくびれ、強く外に開いた円筒埴輪の一種である。一般的に円筒埴輪は、前期では大型で薄手のものが多く、後期では小型の、やや厚手のものが多くなる、とされる。
 形象埴輪は、家・器財・人物・動物に大別される。器財には、楯〈たて〉・甲冑〈かっちゅう〉・靹〈とも〉などの武具、武器のほか、舟などもある。また、動物には、馬・シカ・犬などのほか、鶏などの鳥も見られる(小学館『万有百科大事典』を一部参考にした)。
 郷土の代表的なものは、羽合町・長瀬高浜遺跡で出土した大量の埴輪群である。古墳に並べられたものではないが、その数は家型5、甲冑型3、楯型3、蓋〈きぬがさ〉型9、靹型1、大刀型(?)1、朝顔型53、円筒12と多種多量に上る。
 前述したように、同遺跡は古墳時代前期から中期前半にかけて大集落が、中期後半から後期後半にかけては墳墓群が作られている。この埴輪群は、集落が移動し、その跡地を墳墓に利用するまでの間、すなわち中期前半の終わりごろに、集団が共同祭事の場に使った名残と考えられている(前掲・西村彰滋「鳥取県羽合町長瀬高浜遺跡」)。このうち、衝角付冑〈しょうかくつきかぶと〉をかぶり、肩甲〈かたよろい〉・胴甲(短甲〈たんこう〉)・草摺〈くさずり〉をつけた甲冑型埴輪一個が完全に復元された。全長九二センチメートルあり、このように完全にそろったものは、全国に例がないといわれる。また、家型埴輪では、屋根の形から入り母屋造り、四注造り、切り妻造りなどの建築様式が知られる。同遺跡では、多数の堅穴住居跡や掘っ立て柱建物の跡が見つかっていることから、家型埴輪これらの主要な建物を表現したものと考えられている(保育社『日本の古代遺跡9鳥取』)。
 野花の北山1号墳も、形象埴輪の種類の豊富なことで知られている。採集された墳輪は、円筒、朝顔、楯、短甲、錣〈しころ〉鶏の6種類である。円筒類は墳丘の全面から、形象類は墳頂部と南側くびれ部のすその辺りに多く散乱していたという。その多くは原形をとどめていなかったが、円筒埴輪、鶏埴輪(高さ46センチメートル)などが復元されている(山陰考古学研究所『山陰の前期古墳文化の研究I』)。
 このほか、馬ノ山4号墳の朝顔型・壺型・家型埴輪、同8号墳の円筒埴輪、同14号墳の円筒・壺型埴輪、野方2号墳の円筒埴輪などが知られている。



羽合町・長瀬高浜遺跡で出土、復元された埴輪群
家屋、甲冑、朝顔形円筒などがある。
(羽合町歴史民俗資料館所蔵)


復元された鶏埴輪
(山陰考古学研究所所蔵)

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