第2編 歴史
第4章 近代・現代
第6節 観光
 1  温泉街の発展

新泉源の発見
 前述した立木柳蔵は、大正12年6月、東郷村松崎村組合役場の助役に就任している。翌13年あたりから、その「日記」には温泉掘削に関する協議会出席などの記述が目立って多くなる。前項で述べた小川博士などから、駅前を含む東郷湖周辺での温泉湧出の可能性について、何らかの(注)示唆があったものであろう。第2期の旅行ブームに伴って、温泉試掘の気運がにわかに盛り上がったと思われる。以下「立木柳蔵日記」から新泉源発見に至る経緯を追ってみる。
 大正13年8月24日、川上の森田玄一(現・良平の父)が来庁し、温泉の試掘の相談があった。森田は温泉開発に意欲的であったと思われる。翌14年11月、協議会が開かれ、森田所有の田(現・旭の音田歯科医院の辺り)を試掘することに決定した。その試掘請負人は、米子市の佐野隆之であったとみられる。約3か月後の翌15年2月3日、佐野から「百三十五尺にて愈々〈いよいよ〉四十九度の温度ある温泉湧出する」との知らせが入った。立木は「鉄管の注文をなすなど殆〈ほと〉んど隔世の感あるが如き、色々の文化施設や地方文化発展策に夢を見る如き心地せり」とその喜びを記している。付近では、その後も試掘が続けられたとみられ、6日後の2月9日、田の面からわずか2尺5寸(約80センチメートル)の地点で、摂氏46度の新たな泉源が発見された。立木は「養生館の温泉と相伯仲す」とし、「町中の大評判となりたり(中略)駅前は可なり賑〈にぎ〉はひたるが如し」と地元の反響の大きかったことを記している。この泉源を利用して、間もなく森田の別荘が建てられた。後に旅館「多津美荘」になっている。
 なお『東郷村郷土読本』は、この新泉源発見を2,000円の懸賞金付き掘削であったとしているが、「立木柳蔵日記」にそのような記述は見えない。
 (注) 前掲『本邦温泉論考』には、前述した鉄道官舎の付近に「大正元年以来十三年迄〈まで〉の間に掘鑿〈さく〉した井が十二個ありて、北六〇度乃至〈ないし〉六五度東の方向に排列し」、水温は摂氏27度から37度と紹介されている。駅の付近で東北東に走る泉源の存在が推測されていたのであろう(第1編第1章第3節温泉の項参照)。


森田玄一鉱泉存置許可書
(川上・森田良平所蔵)


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