第2編 歴史
第4章 近代・現代
第1節 行政組織
 2  東郷町の誕生

東郷・松崎両村の合併問題
 前項「大正・昭和前期の行政組織」で触れたように、東郷・松崎両村の合併問題は、昭和16年ごろからの懸案であった。戦後の同25年、再びこの問題が浮上する。
 当時、県は町村規模の適正化を図るために、各町村の現況調査を実施し、合併の必要性を啓蒙したといわれる。とりわけ新制中学校の運営では、数か町村が連携して学校組合を設立したケースが県下42組合(121か町村)にも上っており、町村合併を促す要因の1つであった(『鳥取県史』)。
 東郷村と松崎村は、昭和22年4月、舎人村とともに学校組合立東郷中学校を開校し、翌23年には新校舎(北校舎)を建築している。合併して村から町に昇格すれば、起債の優遇措置など有利な面もあったと思われる。加えて、県の強い指導もあったであろう。しかし、合併に際しての問題は、同16年の場合と同様、新町名をどうするかであった。
 前掲「立木柳蔵日記」によると、昭和25年4月21日、松崎小学校で松崎村民大会が開かれている。当時、両村組合会議員であった松崎の井上豊満は、組合会で絶対多数を占める東郷村側の議員(16人のうち10人)が、新町名を「東郷町」と決議し、県に申請したとする。前記の村民大会は、「松崎町」を主張する松崎村民の抗議集会であったとみられる。「立木柳蔵日記」によると、翌5月2日には松崎一・二区の代表24人が県庁に出向き、反対の請願をしている。しかし、松崎村側にとって事態は好転しなかった。9月5日には、県議会で東郷町に決定するらしいとの情報も伝わった。
 10月に入って、両村組合会議員のうち、現・旭区を含む松崎村選出議員6人全員が、「合併紛議のため」一斉に辞任した。同月12日には、両村組合村長・山枡忠興(引地)も「合併の紛争のため」辞任している(町役場所蔵の両村「職員名簿」)。
 その後、前述した井上豊満によると、県に提出した合併申請書に不備があり、返却されたため、新町名の問題は白紙に戻されたという。「立木柳蔵日記」には、同年11月27日、「知事最後の調停にて東郷松崎町に決定せし経過をきく」と記されている。前掲「職員名簿」によると、組合村長を辞任した山枡も翌12月には再選された。
 明治22年の町村制実施以来、組合役場を設置するなど、長年連携を保ってきた両村であったが、町名の決定には地域感情ががからまったのであろう。

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