第2編 歴史
第4章 近代・現代
第1節 行政組織
 1  行政組織の変遷

益田伝吉と開墾事業
 旧村時代の村長のうち、東郷村・松崎村組合の組合(村)長・益田伝吉と、その開墾事業に触れておく。その多くは、柿本全太郎「開墾事業に徹した益田傳吉翁の足跡」(鳥取県土地改良事業団体連合会発行『鳥取の土地改良』第199号所収)によった。
 益田伝吉は、安政3年(1856)12月11日、田畑村の生まれである。その生涯は、(注)二宮尊徳の報徳精神に貫かれていたという。すなわち、勤勉と倹約で蓄えた富を地域社会に生かす、という「報徳」の実践者であった。
益田が巨大な資産を築き得た経緯は不明であるが、質屋を経営したり、湿地を良田にして売ったりして財産を造ったともいわれる。
 明治26年4月、東郷村・松崎村組合村長に就任した。この年の秋、明治年間で最大といわれる大水害に見舞われた。災害の復旧に献身するためであろうか、益田はいったん村長を辞任している。堤防の決壊で村内耕地の60パーセントが流出したが、元の美田に復旧させたという。長年の村長時代には、「東郷報徳社」を設立して自ら社長に就任、報徳事業の運営にも当たっている(「商工業」の節を参照)。  大正元年に村長を辞任し、しばらく雲陽実業銀行(山陰合同銀行の前身)の倉吉(初代)支店長を務めたあと、同9年12月、天神野耕地整理組合の組合長に就任した。当時、天神野(倉吉市)の開墾は国の直轄事業の1つであったが、資金繰りなどに行き詰まって、組合長が度々交代するなど事業は難航していた。益田は、当時の村長報酬の16年分にも相当する1万円を超える私財を立替投入し、工事を再開した。以来、昭和21年に組合長を辞任するまで、工事費の節約や資金の確保に努めたり、組合員を励まして開墾意欲を持たせたりして新しい村づくりのために奔走し、439ヘクタールという全国でもまれな広大な開墾事業を成功させた。
 昭和23年3月、91歳で没した。倉吉市上古川には、益田の業績を顕彰する記念碑が建てられている。
 (注)天明7〜安政3年(1787〜1856)、江戸後期の農政家。通称・金次郎という。少年時に父母を失い、苦しい農耕に従事しながら勉学に励み、青年期には家を再興した。独特の農法・農村改良策(報徳仕法)により、小田原・相馬藩などのおよそ600の村々を復興したといわれる。優れた門人が多く、幕末から明治前期にかけ、各地で報徳社運動を進め、農村の振興に益した。


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