第3編 信仰と文化財 第1章 宗教法人 第1節 神社行政 神社の国家管理 藩政時代の神社には、後述する明治時代のような社格に類するものはなかった。名前も〇〇大明神、〇〇荒神などと称していた。 明治時代になると、新政府は「神社は宗教ではない」との見解のもとに国の管理とした。すなわち、明治元年に「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむべきの件」を定め、次いで「神仏分離の令」を発布した。神仏混淆(こう)の状態にあった神社から、仏教色を取り除くよう指示したのである。神社名も〇〇神社、又は〇〇宮に統一され、神職の任命も政府が行うことになった。これを、国家神道という。 神社を管理する機関は、その後、神祗官から神祗省、教務省を経て、明治10年には内務省に移った。この間、各神社に社格が定められた。国費で維持される神社には、伊勢神宮を最高として官弊社と国弊社が設けられ、それぞれ大・中・小に分類された。官弊社は、天皇・皇室と関係の深い神を、国弊社は国づくりに功績のあった神を祀(まつ)る神社の中から選定された。官弊社と国弊社の間に、格の上下はない。なお、官弊社には別格官弊社があった。名和神社のように、天皇・皇室に対して功績のあった人を祭神とする神社の中から選定された。以上の神社を、すべて官・国弊社と称した。その他の神社は、県(府)社、郷社、村社、無格社の順序に分類された。 このような社格の規準は、それぞれの神社の由緒と規模が共に重要視された。このため、由緒のある神社は規模の拡大、整備に努力し、上位の格付けを図った。町内の倭文神社が県社から国弊社に昇格するため、昭和6年、拝殿・社務所・宝庫などの新設事業に着手したのはその代表的な例である。 なお、次節で述べる町内の各神社のうち、北野・長江・籠守・藤津・早稲田・福永の6社の旧社格は無格社であった。倭文神社をはじめとする他の5社の旧社格については、それぞれの沿革の項で述べる。 |
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