第2編 歴史
第4章 近代・現代
第4節 官公署と医療機関
 1  官公署
(3) 国鉄と駅

鉄道敷設の概観
 『鳥取県史近代第三巻経済篇』(以下、本節では『鳥取県史』と省略する)によると、山陰本線の建設は明治33年6月、資材の陸揚げに便利な境港を起点として始まった。工事は急速に進み、2年後の同35年11月には境―御来屋間が完成し、山陰に初めて「陸(おか)蒸気」が走った。その後、日露戦争の開戦のため松崎―青谷間の工事が一時中断されたこともあったが、同45年3月には京都までの全線が開通した。なお、松崎駅の開業は同37年3月15日であった(後述)。
 鉄道に開通によって、農林漁業などの産物の商品化が進んだといわれる。特に明治37年に導入されたばかりの二十世紀ナシは、鉄道開通後大正7年までの7年間で県内の栽培面積が5倍(300ヘクタール)に増えたという(『鳥取県史』)。しかしその反面、町外から鉄道工事の労務者が入り込み、賭(と)博が行われるなど風紀が乱れた。「舎人小学校沿革史」(桜小学校所蔵)は、日露戦争が始まった明治37年2月の項で「山陰線工事中ニテ労働者多数入リ込ミ、教育上悪感化ヲ及ボシタルコト尠(すくな)シトセズ」と記している。また、大雪で作業ができないのに加えて、戦争で松崎以東の工事が中止になったため、労務者のなかには「食料家賃等ヲ不払ヒニテ夜逃スルモノ多ク、村民ノ迷惑一方(ひとかた)ナラズ。中ニハ之レガ為メ破産ニ頻(ヒン)セルモノモ生ズルニ至レリ」と、地元が受けた悪影響を強調している。
 なお、山陰線が東郷湖西側の国道9号線コースをとらなかった背景には、地元の強い反対意見があったといわれる。当時、橋津は天神川と連絡する川舟交通と海上輸送の重要な港町であったため、鉄道がつけば港が寂れると交通業者などが反対し、また、水田がつぶされる、汽車の通るたびに地盤が揺れて米が不作になる、と地主などが反対したという。しかし、松崎を通る路線に決まったのは、こうした反対ばかりでなく、鉄道院の側からみて、工事費節約のためであったと考えられる。橋津経由の海岸線でも、鉄橋2つのほかトンネルも必要であったとみられている(『鳥取県史』)。