第2編 歴史
第2章 中世
第2節 鎌倉・南北朝時代
 4  南条氏と羽衣石城

南条氏の出自
 おおかたの史書は、南条氏の始祖を出雲守護塩谷高貞の二男とする説を採用している。
 塩谷高貞は宇多源氏佐々木氏の出で、足利尊氏に従い出雲・隠岐の守護となった。『太平記』によれば、高貞の妻は後醍醐帝から賜った女官で、容姿が優れていた。このことを聞いた尊氏の執事(将軍の補佐役)・高師直は、彼女に懸想〈けそう〉し言い寄ったが成就せず、ついには高貞を殺して手に入れようと考え、高貞に謀反ありと尊氏に讒〈ざん〉言した。暦応4年(1341)3月28日、身の危険を感じた高貞は、妻子とわずかな手勢を従えて、領国出雲に走った。これを聞いた尊氏は、時を移さず山名時氏・桃井直常らに命じて後を追わせ、高貞の妻子は播磨国陰山(現、姫路市)で追っ手に討たれた。高貞はかろうじて出雲に帰り着いたが、結局自殺したといわれる。
高貞に2児があり、長子は母と共に討たれたが、二男は高貞の臣八幡六郎が付近の草庵の老僧に託して、出雲まで送らせた。
 『羽衣石南条記(注)』はその時の様子を次のように述べている。
 されば彼の播州蔭山にて三歳の若君を預りしは、これなん塩谷譜代の郎等たりし広瀬帯刀といひし者にて、故有て先年雲州を立退き漂泊の身となり一時貧窮に迫りて生命を繋〈つな〉ぐべきよすが(よるべ)もなく、夫婦諸共に頭を丸めて僧尼となり、かの辻堂の傍〈かた〉へにて甲斐なき月日を送りけるが、此の急難を見るといとしく心は猛く勇むと雖も防ぎ戦う兵具もなし。只衆怨悉〈しゅうえんこ〉退散〈とごとく〉と念珠〈ねんじゅ〉するより外ぞなき。かかる所へ八幡六郎若君を抱へ来りて是を頼むと言し時、互にそれとは知りながら、巨細〈こさい〉(委細)を問わんあいもなく、是専一の忠義なりと早速若を受取て尼が懐へ入隠して、一散に走りて雲州へこそ落行けるに、人の心は飛鳥川、淵は瀬となり替る世の習にて高貞滅亡の後は一族親類たりとも高貞の種といひなば根を断ち葉を枯さんとなす形勢なるにより、雲州へも忍び居がたく、夫より北国へ漂泊して越前ノ国南条郡宅良の里に頼むえにしの有ければ、其所へたよりて暫〈しば〉らく爰〈ここ〉に蟄居〈ちつきょ〉せり。然るに此若君成長するに随いて聡明多智にして(中略)始めは国守斯波武衝に随身して後には将軍義詮公の幕下と成り、所々の戦争に武名高く、此等の功によりて終〈つい〉には伯州を守領し、定(貞)治五年丙午始めて河村郡埴見の荘羽衣石に城郭を構へける。元来尼の懐によりて救ひ取られ養育せられ又南条郡にて成長せし故、世人呼で尼子南条とぞ申しける。
 高貞の二男は、のちに初代羽衣石城主になったとしている。尼に育てられたがゆえに尼子と呼んだと説明しているが、後年出雲に興った「尼子氏」との縁故によるものと考えるのが妥当であろう。
 (注) 主として南条氏10代の興亡盛衰を描いた通俗史書である。著者は矢吹似猿人。江戸時代(18世紀)の人。ほかに「南条民語集」などの著書がある。


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