第2編 歴史
第4章 近代・現代
第6節 観光
 2  観光地づくり

羽衣石城の再建
 羽衣石城再建のニュースは、昭和6年8月13日付けの『鳥取新報』(県立鳥取図書館所蔵)が次のとおり伝えている。
 東伯郡花見村の羽衣石城趾〈し〉は今を去ること三百数十年昔城主南城(ママ)中務能久が毛利元就勢のため落城の悲運に遭ったものであるが明治四十二三年頃〈ころ〉其末裔〈えい〉当時兵庫県豊岡町南城寅之助氏が其城趾に巨費を投じて石碑を建立し其後羽衣石青年団長尾西正光氏が史蹟保存のため天主閣(ママ)再建を計画してゐたが実現の運びに至らざりしが今回現在大阪市東成区鶴橋北ノ丁にある南域寅之助氏が三千数百円を投じて三層建の天主閣を建設することなり(中略)尚〈なお〉天主閣は九月中に竣〈しゅん〉工の予定であると
 同紙にはその後の報道は見られないが、3カ月後には完成したとみられる。同年11月に、天守閣の傍らに再建記念碑が建てられている。標高372メートルの険阻な山道での資材運びなどは困難であったと思われるが、当時の詳しい資料は残っていない。なお、往時の羽衣石城が、3層の天守閣を備えていたとは考えられない(「中世」の章を参照)。先祖を顕彰するための模擬天守閣というべきものであろう。以後、近郊の学校の遠足コースなどに利用され、親しまれてきた。


再建された羽衣石城の模擬天守閣
(旭・河本一三所蔵の戦前の絵はがきによる)


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