第2編 歴史
第4章 近代・現代
第1節 行政組織
 2  東郷町の誕生

泊村との合併問題
 知事の勧告案と相違して、泊村を含む合併ができなかったことについて触れておく。これは、後の昭和31年、東郷町と泊村の合併問題が再浮上した際の記録によるものである(町役場所蔵「東郷町泊村合併関係綴」)。
 昭和28年当時、泊村を合併できなかった理由として、地理的条件、産業的立場などが挙げられている。
 1.東郷松崎町、舎人村、花見村の3か町村は、東郷湖を半円状に囲むように隣接した平坦地である。泊村は、わずかに舎人村に隣接しているが、そのほとんどが山岳で隔てられ、鉄道・県道が通じているものの、環境的に双方の親近感が薄い。
 2.泊村は急しゅんな傾斜地での畑地農業と日本海漁業を主産業としているのに反して、三か町村は平坦地農業と果実栽培を主産業とし、これに観光事業を強力に推進している。
 このほか、3か町村同士は古くから住民の交友関係が極めて親密であったが、泊村とは疎遠であった、などとしている。自然条件、目指す主産業の相違に加えて、住民感情なども加味されて、泊村との合併が実現しなかったと思われる。
 なお、『羽合町史後編』によると、羽合地区の合併委員会では長江を羽合町の合併対象地区とするか、現羽合町浅津を東郷町に合併させるか、などが話題になっていたという。また、『倉吉市史』によると、上井と西郷(いずれも現・倉吉市)は、倉吉町と合併するよりも、上北条・花見の両村と合併して、倉吉町とは別の町をつくろうとする動きがあったといわれる。花見村など前記4か村は、当時、学校組合立河北中学校を設置していた(「学校教育」の節を参照)。

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