第2編 歴史

第3章 近世

第6節 近世の文化

1 埋蔵文化財

 

宮内の貝殻経塚

 宮内の貝殻経塚は字「堂山」にある。倭文神社の西側約250メートルの所である。出土地点には、現在、三角錐(すい)形の石が置かれ、目印にされている。

 経塚の発掘は、梨園造成に伴って、土地所有者が10数年前に行った。遺構は数枚の板石で、一辺45センチメートルぐらいの石槨(かく)が組まれ、その中に貝殻経が埋納されていたといわれる。出土した貝殻経は、現在、出土地から70〜80メートル離れた丘陵

上に、木箱に納められて、丁重に祀(まつ)られている。

 現在遺存している貝殻経の総数は、2420個である。貝の種類は、海産ではコダマガイなど7種類、淡水産ではヤマトシジミが確認される。これらは、宮内に近い地域で採取可能な貝ばかりである。

 書写は、貝の内面や外面に1字ないし2字が墨書(ぼくしょ)されたものが多く、大きい貝には数個の字が墨書され、1字1石経との類以がうかがわれる。墨書された文字は、現在、酸化による腐食が激しく、正確に読み取れる貝の個数は少ない。1字が墨書されている貝は、小型のものが多く、「丘」「文」「一」「慕」「得」「師」「佛」「説」「阿」などと判読できる。また、「知不」「末久」「佛子」「妙典」「比丘」「方便」「女人」「妙法蓮華」「眷属(けんぞく)六千人」などのように、2字又は2字以上墨書された貝も混在している。これらの文字によって、�@多くの部下を擁する豪族の長の供養に伴い、�A女の人たちによって、�B法華経が書写され、経塚が造営されたであろうことが、わずかながらに推察される(三谷巍「東郷湖畔の貝殻経」県立博物館『郷土と博物館』通巻54号所収)。

 その造営時期は明らかではない。戦国時代とする説、あるいは江戸時代とみる説がある。前述したように、1字1石経は特に江戸時代に盛んに行われている。貝殻経を1字1石経に類以したものとみると、江戸時代の埋納とみるのが妥当かもしれない。

 経塚を造営した場所については、各時代を通じて、社寺と何らかのつながりをもつ所、すなわち社寺境内やその近傍あるいは霊地と目される所を選んで造られている場合が多い。現在、宮内には寺はないが、かつては一ノ宮の神宮寺が数か所にあったといわれる。一ノ宮の神宮寺は天正期の戦乱により離散・廃絶したとするのが一般であるが、この経塚が江戸時代の造営になるものとすれば、その当時まで存続していた神宮寺があったことも考えられる。