2編 歴史

3章 近世

4節 庶民の生活

4 飢饉

 

天保の飢饉

 『鳥取県史4近世社会経済』は、「天保4年(1833)から7年余に及んだ大飢饉は、冷害と天候不順に原因するものといわれている。しかもその期間は長期にわたり、災害の持続性においても最も深刻であり、また、その地域は東北が中心であったが、被害が全国に及んだ点からみても、江戸時代の最大の飢饉となった」としている。

 天保の飢饉については、前掲「御時節柄高直ニ付扣帳」がその状況を伝えている。筆録者が町人であるため、松崎の状況が主で、農作の被害などには余り触れていない。飢饉に関する記述を紹介する。

 天保4年は、「御両国(因幡・伯耆)は中年作方(普通作)ニ候得共、諸国宜しからず」と述べている。

  五年 北国方へは、米出来立申さずと聞え、大坂ニおいて、麦飯かゆ改之御役人日々町廻と相聞候、因伯ノ村々いのこ取ニ、巳ノ霜月(四年十一月)頃より春早々にぎへ敷事と相聞候、巳ノ冬より午春まで雪漸々五寸斗ふり、珍敷雪参り申さず、夏よりそうもく宜敷ニ付、米 綿豊作なれ共、畑作至って宜しからず、

  六年 冬中・正月・雪五・六寸斗り、

 諸国の凶作が伝えられたり、雪が余り降らなかったためか、4年の暮れから5年にかけて、いのこ(クズの根。でんぷんがとれる)を掘る人でにぎわったと記している。

  七年 大麦出来立半分、味至て宜しからず、小麦種なしと申事也、四月より八月まで雨ふりがちニて、米四百十五匁、(中略)山中方至て悪年ニて、里作まで宜しからず、諸国も同様と聞え、こまり居申す、奥・山中・近村・町内ハ夜(注1)ほいとう(ヽヽヽヽ)多く参る、在方の難義者は一人に米一合宛、御上様より仰せ付けさせられ、作人江高ニ三歩、御切手ニて遣させらる、

    町内難義者へかゆを遣ス様組頭へ申渡し、十二月朔日より、上町ハ土井氏より、中町は野口氏より、新町は伊藤氏、田町は私方より、 ニ町内七十一軒へ白米少々宛遣ス、(中略)

    町内者供、人気至って宜しからざる趣の処、十一月二十七日夕、私宅 ニはりまや彦兵衛右両人目代役、米屋共へも、夜ふけてより右ヲ打、私戸二ツ打、其タ直ニ年寄所へ、両人たひ(退)役ヲ願候得共、先相勤候様、段々年寄より申され、よんどころなく勤居申所へ、極月十九日夕、町内大勢大声致し、役人中へ石ヲ打、其外所々へ石ヲ打、酒屋中(注2)へかつぎもの(ヽヽヽヽヽ)致し、酒を呑セ、 ニほいとう大勢参り、願之趣、米をかして呉候様、何分さわがし事故、きも入弥兵衛へ右之趣を小鹿役所へ申上、早速田中氏下奉行大勢参られ(後略)

 (1) ほいと(ヽヽヽ)・ほいた(ヽヽヽ)ともいう。ものもらい。

 (2) いやがらせのため、不潔なもの、不吉なものを家の中にかつぎ込むこと。

 このようにして、事態は次第に深刻の度を深めていく。藩は在方の因窮者に米1合ずつ与えたり、領内一律に作高3歩の救米を与えたりした。松崎町内では、富家から困窮者にかゆや米を与えている。しかし、町内の空気は徐々に不穏になり、町役人や米屋の家に投石したり、かつぎものをする事態になった。ついには、3人の者が召し捕られて組預けになっている。

 こうして、飢饉は天保8年にピークを迎える。

  八年 正月下旬には、鳥府米直段五百七十目ニ上り白一升ニ付十弐匁五分、当所之義俵ニ付五百目、白一升ニ付九匁五分、取つづき至って六ツケ敷、諸国町在共ニうへ死致スもの多しと聞、にがへ敷事ニ御座候、 ニ町在共さし火(放火)致し、毎夕へ所々出火、こまり入候(中略)、

    猶又田畑の作りもの何ニかぎらずぬすミ取、ほいとう日々数しれず(中略)、

    六月下旬、米五百目位下り、何角少々下り候得共、何分大しゆうかん(ママ) ニうへ人多く、人死ス事限なし、(中略)

    十一月頃、米二百五十目位下り、大豆・小豆下直ニ候得共、何分銀不自由ニ而こまり居申し、町内ニもぬすミする人多く、八月頃より六人御召取、入籠(牢)ニ相成にがへ敷事也、

 放火・盗みを働く者が続出し、「ほいとうは日々数しれず」、まさに騒乱状態であったと思われる。また、「人死すこと限りなし」と表現している。前表によると、天保8年の死亡者は346人を数える。その前後10か年の1年平均は約90人であるから、実に4倍に近い数字である。餓死・病死いずれにしても、みぞうの大飢饉であったといえよう。