2編 歴史

3章 近世

4節 庶民の生活

4 飢饉

 

天明の飢饉

 『因府年表』によると、天明2年(1782)は霖雨と水害、3年8月には大雨があったとしている。天候不順によって、2年続きの凶作になった。この飢饉については、「松田

休意日記」がその状況を伝えている。

 () 正月下旬(天明四年)、米直(値)段三〆三百文位、二月上旬より四〆文より百文致候、然共売米ハこれなく候、

 () 二月十日より十一日、橋津天野屋十兵衛亡父五十回忌ニ付、乞食夥敷罷(こじきおびただしくまかり)越ニ付、三合食(めし)位之にぎり食壱人に壱ツヅツ遣申候、にぎり食千五百用意致候処、漸ク三十七残り申候程之事ニ御座候、

 () 十一日、舎人谷より百性共大勢橋津大庄屋戸崎多兵衛方へ売米願として罷出候、

 () 十二日夕、久見村又左衛門方へ東湖(郷)谷百性共大勢参込ミ一飯を乞イ、壱石余も食差出申候よし扨々(さてさて)騒ク事共ニ御座候、

 () 先日已来より、百性共騒動致ニ付御役人罷越、東湖谷・舎人谷之者共四、五人召し捕らる、

 ()()は困窮した農民らが、富者を頼って食を求めた状況を伝えている。「諸事控」(『鳥取県史9近世資料』所収)によれば、天明4年の春、河村郡の者が大勢橋津に集まり、不穏な動きがあったらしい。()の記事は「売米願」にまかり出たとしているが、「不穏な動き」と同一のものであろう。橋津には藩倉があり、藩米積み出しの拠点であったから、『鳥取県史4近世社会経済』は、橋津での農民蜂起は「飢饉対策を急務と主張し、藩米の大坂廻送を阻止しようとする動きであったのかもしれない」と推定している。

 また、「松田休意日記」は「町内難義之者有之ニ付、乞食粥(こじきがゆ)相願、左之面々より」として、松崎町内の困窮者に「乞食粥」を与えた松田平兵衛外11名の名を挙げている(資料編80号)。

 さらに、当時の「小百姓」が食用に供したという、わら餅(もち)の製法を次のように記している。

  わら一夜程かし(水に浸し)、其より壱歩(三ミリメートル)ほどづつに切取、尤(もっとも)尾頭之所ハ切捨る也、扨(さて)、それを鍋(なべ)などニていり、赤色ニ成る程ニして、臼(うす)ニて粉ニして、わら一把分ニ小(粉)米など三合位入れ、能々(よくよく)せいろうニてむし、餅ニ致ス也、

 筆録者の松田休意は、このわら餅を試食したのであろう。「殊之外難給(たべがたき)もの」と評している。また、この年に餓死者のなかったことについて、「御仁政ニ付、餓死致候者もこれなく、ありがたき御事ニ御座候」と述べている。餓死者のなかった範囲は明確でないが、松崎を中心として筆録者が医師として見聞した範囲と推定される。おそらく現在の東郷町ぐらいの地域を指すものであろう。

 しかし、前表によると、天明4年の死亡者は非常に多い。前後の年の約5割増しになる。これらが餓死でないとすれば、飢饉に伴って流行した悪疫によるものであろう。いずれにしても、冒頭にあげた飢饉の定義にあるように、これらの死者も飢饉の犠牲者に数えられる。