2編 歴史

3章 近世

4節 庶民の生活

4 飢饉

 

享保の飢饉

 享保の飢饉について、町内に残る記録は「音田家覚書」が唯一のものである。関係した記事を紹介する。

 () 享保十七子ノ年(一七三二)年七月初方より、稲に参(ママ)子虫出、早稲・中稲・晩稲まで夥敷(おびただしく)喰候て、古今無類之大悪年ニ成ルと思へて、惣方歎浅からず、老若男女たいまつをとぼし、鳴功(子)をならし、虫(注1)をおくりたて候、田の水はべにのごとくなり(中略)、□(虫カ)送りの印にや、また次第に冷気ニ相成候ゆへにや、虫次第に少く□り候得共、大分の痛にて、羽合残らず御(注2)検見(けみ)初(始)ル、埴見の口□痛左程ニもこれなく、御検見ハ願申さず候得共、大悪年(下略)

 () 稲虫付キの翌年丑にて、御郡中飢人多シ、飢扶持(うえぶち)として粥を仰せ付けられ、飢人六千人余なり、あながち飢えずとも、飢人となり候故なり(中略)、此年秋の実入り五穀類は申すに及ばず、木実などまで十分の実入り(下略)、

 (1) 作物などの害虫を除くため、村人が大勢で松明(たいまつ)をともし、鐘鼓を鳴らして村外れまで稲虫を送り出す行事。

 (2) 毛見とも書く。風・水・虫害などにより被害を受け、年貢の完納が難しいと予想されるとき、藩に検査を願い出た。藩は役人を出帳させ、実地に坪苅りなどを行って、損米を算出した。これが検見と呼ばれる。しかし、検見役人の賄費などはその村の負担であり、検見が実施されるとなれば、多額の経費が必要であった。そのため、検見を願い出るには慎重な配慮を要した。

 『鳥取県史4近世社会経済』は、「享保17年(1732)は西日本一帯に蝗(こう)害があり、西海・山陽・四国は蝗害により飢饉となった。鳥取藩でもウンカの大発生によって凶作となった」と述べている。「参子虫」はウンカを指すものと思われる。羽合郷内の全村は藩に検見を願ったが、埴見郷の田については、「痛み左程ニも無レ之」検見は願わなかったと記している。大凶作には相違ないが、埴見郷においては多少のゆとりのあったことが感じられる。

 翌18年には、河村郡に6000人の飢え人があったと記している。当時の河村郡の人口を1万7、8千人(資料編101号参照)とみると、おおよそ3人に1人の割合で飢え人があったことになる。ただし、この中には飢え人を装って粥(かゆ)をもらった者も含まれる。

 表30は町内の寺院中6か寺の過去帳によって、飢饉の前後10年ぐらいの間の死亡者数を集計したものである。享保年間の過去帳の伝わるのは、法林寺・西向寺の2か寺である。これによると、飢饉がピークであったといわれる享保17年より、その前年及び前々年の死亡者が多い。法林寺の過去帳では児童の数が不明であるが、西向寺の分は約半数が児童の死亡であって、飢饉と疫病の流行が重なったものとみられる。