第2編 歴史

第3章 近世

第4節 庶民の生活

2 庶民生活の諸相

 

悪田に悩む農民

 東郷池周辺の田は、池のいかり(ヽヽヽ)がつき(水位が上がること)稲が冠水したりして減収となり、納貢に差し支えることがあった。「諸事控」の嘉永7年(1854)2月11日の記事(『鳥取県史12近世資料』所収)が、その実情を伝えている。長文であるので、その要旨を紹介する。

(1)松崎町□□屋五三郎は先年引地村多十郎に金を融通し、その保証として同人所持の中興寺・宮内・藤津村地内の田地を質にとっていた。だが期限内に返済がなく、それらの田が質流れとなったので、五三郎はやむを得ず、その田の所有者として耕作せざるを得ないことになった。

(2)中興寺村地内のその田は、東郷池に近い悪田で、年々冠水して穂の出が悪く、年貢を納めるだけの収穫がなかった。困った五三郎はその田を処分しようと考え、銀札100目を工面し、これを添えて引地村の者に譲る約束ができた。しかし、その契約書面に要する中興寺村庄屋の役印を得ることができず、この契約は成立しなかった。

 これは、引地村役人がこの話を聞き、その田が将来引地村の負担になることを恐れて、あらかじめ、中興寺村庄屋にこの契約を承認しないよう依頼していたためであった。

 (3)五三郎は毎年借金をして年貢を納めてきたが、ついに辛抱ができず、嘉永4年(1851)の暮れ、退身(逃亡)してしまった。「数年来損米相積り高借りに及び、それ故退身仕り候やと察せられ、不便(ふびん)の次第に御座候」と、町庄屋は五三郎の心情を察し、このように述べている。

 (4)このころ、持ち主のなくなった田畑は、耕作を希望する者がない限り、そこを領分とする村が惣(そう)作(共同耕作)することになっていた。藤津・宮内地内の田は、町役人が両村に交渉してそれぞれ引き取ってもらい円満に解決した。しかし、中興寺村はこれに応じなかったので、松崎町役人は藩に願い出た。

 (5)これに対して、中興寺村庄屋は反論する。藤津・宮内両村が引き取ったのは、その田を惣作にしても、村の負担にならないからである。中興寺村には東郷池周辺の悪田が数多くあり、もし松崎町の言い分を認めると、それが例となり、同様な悪田を村の惣作として背負わねばならなくなる。そうなっては村の経営ができない。中興寺村庄屋は、「当村分は池辺(いけべり)にて年々水損に相成り、一向立毛出来申さず、難渋(なんじゅう)の場所に御座候に付、相断り申し上げ候。素(もと)より右等の類(たぐい)数々御座候に付、五三郎分請取り候ては、追々(おいおい)右の類出来、村方相立ち申さずに付き」中興寺村で受け取るわけにはいかないから、松崎町で惣作するように主張する。

 結局、この田は藩の裁定で松崎町が惣作することになる。中興寺村が主張しているとおり、同村など池べりの村々では、このような悪田が多くあり、農民は苦労したのである。

 この田の所在地は中興寺村青木とあるから、山陰線松崎駅と東郷川鉄橋とのほぼ中程の地域である。今は線路によって分断されている。天保14年(1843)に作成された「河村郡中興寺村田畑地続全図」(東郷町役場所蔵)によれば、字「青木」・「二ノ青木」・「三ノ青木」があり、「三ノ青木」は東郷池に接している。