2編 歴史

3章 近世

4節 庶民の生活

1 新田畑の開墾と草山争論

 

草山争論

 山野の柴草(しばぐさ)は、稲作にとって重要な自給肥料であった。その施用量は村の慣習などにより相違はあったが、前掲「自家業事日記」によれば、水田1反に柴草を150〜160貫を使用したといわれる(『鳥取県史5文化産業』)。そのほかに、牛馬の飼料・敷草などを合わせると、ばく大な量の柴草が必要であった。しかし、村の立地によって、草刈り場の不足する村と、余裕のある村ができるのはやむを得ない。その場合、村同士の話し合いによって、共同利用の慣習が生じてくる。これが入会(いりあい)と呼ばれ、時に紛争の原因になるのである。

 鳥取藩では享保(1716〜35)のころから、次第に草山争論が多くなったといわれる。おそらく新田の開発が進み、肥料がますます必要になったためであろう。町域内においても、このころから草山争論が見受けられる。村同士で解決がつかず、藩の裁定に持ち込んだから、「諸事控」にその記録が残っているのである(『鳥取県史9近世資料』)。また、地元に記録が残っている場合もある。

 町内では次の争論が知られる。

 (1) 享保7年(1722)9月 方地・北方・漆原3か村の争論

 (2) 享保18年(1733)6月 方地と白石の争論

 (3) 寛延元年(1748)8月 羽衣石と田畑・小鹿谷の争論

 (4) 宝暦2年(1752)8月 白石・野方と久見・中興寺・松崎の争論

 (5) 宝暦5年(1755)3月 埴見郷の争論

 (6) 文化10年(1813)9月 長江と埴見の争論(資料編102号)

 (7) 文化13年(1816)7月 方地と白石の争論

 (8) 慶応元年(1865)9月 宮村村と上・下両浅津村及び宇谷村との争論(資料編77号)

本稿では、羽衣石と田畑・小鹿谷の争論 ((3)) と、方地と白石の争論((2)(7)) を取り上げてみたい。