第2編 歴史

第3章 近世

第4節 庶民の生活

1 新田畑の開墾と草山争論

 

花見地区の新田開発

 「音田家覚書」によれば、享保16年(1731)に、長江村戸崎から上浅津村浜田までの間22町歩の開発を藩に願い出た記録がある(資料編101号)。

 また、「諸事控」(『鳥取県史9近世資料』所収)は、元文5年(1740)、時の郡奉行安田清左衛門が久米・河村の両郡役人にあてた「河村郡東郷池、新田村磯江徳左衛門(門田前)流し山、今年より五年之内流し候様申遣ス書状之控」を採録している。この書状は、

  一、本年より子(ね)年(一七四四)まで、五年間に限り砂流しを行うこと。

  一、この工事によって、万一既存の田地に砂が流入した場合は、徳左衛門方で砂を取り除き、植え付けができるようにすること。もし、植え付け後に砂が流入した場合は、その年の年貢は徳左衛門が負担すること。

などの条項を徳左衛門に申し渡すよう依頼したものである。「流し山」とは、水路により上流の土砂を下に流し新田を造成する工事をいう。このようにして、新田造成の努力が続けられているのである。

 『日本土木史』(土木学会編)によれば「花見村門田、素封家岡本家数代の経営、寛永年間(1624〜43)より延享年間(1744〜47)まで、埋立て干拓田面積25町余、爾来明治時代まで4、50町歩に及ぶ(花見村長岡本義雄氏古記)」と記されている。

 さらに、藩政末期、野花の通称・えぼし岩から養生館の辺りまでの池の埋め立てが藩により計画された。野花・長和田間の山稜に水路をつけ、羽衣石川の水を引き入れて、えぼし岩付近に落とす設計であった。これは「流し山工事」と呼ばれたが、やがて廃藩となり工事は中断された(『ふるさと東郷』)。